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日誌・25 二度心臓に悪い

態度は一見、落ち着き払っているようにさえ見えたろう。 だが、雪虎の口調は荒い。スマホを片手に会話する彼が、久しぶりに怒りで煮えたぎっていることは、付き合いの長い山本浩介には明白だった。 雪虎の怒りが分かりにくいというものは多いが、今、浩介と彼の間にいるバイトの筒井真也にも伝わるものがあるらしい。長いこと放置されていたのだろう、埃をかぶった椅子にちんまりと座った真也は居心地悪そうに身を竦めている。 その顔には数か所に擦り傷の痕や痣があり、おそらくは全身そこかしこに打撲の痕跡があるはずだ。 骨に異常がなさそうなのは、不幸中の幸いだが、医者にきちんと診てもらった方がいいだろう。 浩介はタクシー会社に繋がっていたスマホを切り、 「バイトくん」 いつもと同じ飄然とした態度で呼びかけた。というのに。 びくり、と真也の身体が跳ねる。怯えたように。惑う目が一瞬泳ぎ、覚悟を決めたように浩介を見上げた。 これも仕方がない反応だ。と言うか、まっとうな家庭で育った人間の真っ当な反応だった。そして。 怯えられて、傷つくような繊細さなど、浩介は子供の頃になくしている。 足元で苦痛に呻く声が耳障りで、平然とさらに力を込めて踏み潰してさえ見せた。 一方で、真也を気遣う声をかける。 「お前は病院に行くといい。タクシーを呼んだから」 顔を浩介に向けたまま、真也の視線が真下を向いた。 「あの、コウさん、それ…」 うめき声が気になるらしい。 人の好さそうな垂れ目を和ませ、にっこりと浩介。 「ああ、邪魔なゴミだよな? 大丈夫、然るべき場所へきちんと捨ててくるから」 ここは、寂れたビルの中の、数年は使用された痕跡のない部屋の中。 放置されている事務机や椅子の間の床に、複数の男たちが倒れ、縛り上げられている。 ビニールテープで容赦なく。 それぞれの身体には、真也が受けた以上の暴力の痕跡が残っていた。 それらをなしたのは。 雪虎と、浩介だ。 発端は、真也が、大学からの帰り道。 いきなり、拉致されたことから始まる。 かつて真也は、他人事としてニュースで見れば、知らない相手の車に乗るなんてあり得ない、乗った人間が愚かなのだと断じていた。 が、実際自分の身に起こったその出来事は、考え方をいささか修正する必要があると感じるようなことだった。 歩道を歩いている最中だ。隣に車が止まった。 そう感じた後は、本当に一瞬の出来事だった。 気付けば車内でひっくり返り、頭に袋をかぶせられていた。 視界の利かない中、嘲りを含んだ物騒な声が、袋越しに真也の耳に届く。 ―――――お前のバイトについて聞きたいって人がいる。 これからその人がいるところに連れて行く、と、告げた相手は、乱雑に真也を座席の隅に追いやった。 暴れることは思考の外にあった。下手に動けば、いくらでも相手は乱暴になる気がしたからだ。荒事に慣れた気配に、冷たい汗が止まらなかった。 どれくらい、車で連れ回されたかは、把握していない。 パニックを起こさないでいられたのが不思議なくらいの緊張のせいで、時間の流れがうまく感じ取れなかったのだ。大体、真也の周囲には複数、人がいたはずなのに、最初の言葉以来、痛いくらい満ちた車内の沈黙が、本当に怖かった。 何度目かに車が停まったと感じた場所で、襟首を掴まれ、猫の子のように、真也は無理やり車から引きずり出された。 そうして連れてこられたのが、―――――この場所だ。 見える範囲の床を見下ろし、倒れた人数と、散った血の跡、それから満ちる苦痛の呻きに。 ごくりと喉を鳴らし、つばを飲み込む真也。 上目遣いに浩介を見上げ、綱渡りの気分で思う。…答えを間違えるな、真也。 「…はい、そう…ですね」 「おい、バイト」 浩介と逆側にいた雪虎が呼ぶのに、真也は弾かれたようにそちらへ顔を向ける。 「お前に暴力をふるった相手の顔は覚えてるか」 こんな場合にも、雪虎を最初に見た刹那、真也は目を逸らさないではいられない。 慣れることは決してない醜悪さと言うのがこの世には存在するのだと、彼と出会ってはじめて真也は知った。 とはいえ、もう一度見る、ことさえすれば。 答えを根気よく待つ、雪虎の顔に、ホッとする。 男前だな、と今度は惚れ惚れするのだから、雪虎と言う人物は二度心臓に悪い。 「人の顔、覚えるのは得意なので」 雪虎は、真面目な顔で頷く。 「…だ、そうだ」 すぐ、スマホでの会話に戻った。それを横目に、浩介は真也に尋ねる。 「そいつは、アマクサの情報を知りたがったんだな」 「…ただのバイトだって言い張ってたら、殴る体力なくなったみたいで、ソイツ、いなくなっちゃいました」 飽きっぽい相手で助かった、そして、殴るのが下手だったから、急所とは微妙に外れたところが痛い。おかげで、気を失うこともなさそうだが。 そう、依頼人は素人だった。だが、真也の拉致に雇われた男たちは玄人だ。 真也は寒気がした。 依頼人の素人が去った後、雪虎たちが来ず、あのまま玄人らしい男たちの間で、一人放っておかれたら真也はどうなっていただろう。楽観的な結論はでなかった。 「何だったんですか、アイツ…あ、いえ」 青あざになっているだろうこめかみを押さえ、真也は言葉を切る。 あの、暴力をふるった相手の名は、浩介が今、床に転がっている連中から聞き出した。玄人から情報を短時間で聞き出せるということ自体、尋常ではない。 ただ、そこには目を閉じ、得られた情報だけを真也は脳裏で反芻する。 九条英二。 雪虎がスマホで話している口調から、御子柴の社員らしいが、なぜ御子柴の人間が下請けのしょぼい美装屋の、さらには下っ端のバイトを攫うのか。 いや、彼が知りたがった情報が何かは、無論、想像がつくけれど。 それならそれで、ますます意味が分からない。 御子柴の人間が、御子柴の情報を知りたがる、とは…そこまで考えて、真也は思考を止めた。 今、雪虎が話している相手が誰か。 これも、想像がつく以上、ここから先は、真也が踏み込んではならない場所だ。 「オレは何も知らない、聞かなかったことにします。これは、事故でした」 「ほい、お利口さん」 浩介が、目尻にしわを寄せて笑う。 これだよな、と真也は固い笑顔を返した。浩介は、これが怖いのだ。 口にしたのが正しい答えなら、いい。だが少しでも間違えたなら。 先ほど振るわれた暴力のような、力づくの口封じが待っている予感がする。 一見、穏やかそうなのに、芯まで暴力に慣れた気配があるのだ。 真也の態度に気付いているだろうに、浩介は平然と続けた。 「片付けの手配やらなにやらは、おれと先輩でやる。お前は治療に専念しろ」 態度は、いつもと同じ、飄々としたものだ。 だが、今は安心するより、同じ態度で、浩介がなんの躊躇いもなく嵐のような暴力をまき散らした姿を見た後だと、薄ら寒く感じる。 逆隣で険しい態度を示す雪虎の方がまだわかりやすい。なにより。 雪虎が今怒っている理由が分からないほど、真也はバカではなかった。 薄々察していたが、雪虎は、『身内』と区切ったものに対しては、甘い。とことん。ザルだ。 大事にして。大切にして。底抜けの寛容さを見せるのだ。 どうやら最近、その区切りの内側に入ったらしい真也が痛めつけられたことに対して、雪虎は現在、怒り心頭なわけだ。 そんな、人だからこそ。 甘ったれてるな、と思うような態度も、取ってしまうわけで。 対して、浩介は容赦がない。 「先輩なら、もう二度とこんなことがないどころか、仕返しまでやり遂げてくるさ。だからまあ、残る問題はお前だ」 何が言いたいかを理解して、真也は俯いた。 「今なら、こんなヤバイとこから一抜けすることが可能だぞ。まだバイトなんだしな」 真也が、この、法に触れるか触れないか、ぎりぎりの仕事に首を突っ込んだはじまりは、偶然だ。 そのまま突進したのは、自分の意志だ。遊びや好奇心ではない。金が欲しかったから。大勢の弟妹を育てる責任が、彼にはあった。そのために。…金が。 「コウさんは」 距離を測るように、真也は浩介を上目遣いに見上げた。 「なんで、この仕事に? 始めた時期は、オレと似たり寄ったりって聞いてますけど」 「ああ、ソイツはな」 答えは、逆隣から返る。 「元警察」 「へ?」 スマホを耳から離し、帽子の下から不機嫌そうに雪虎は浩介を見遣った。 「その上、辞める最後の半年は要人警護の部署にいた。なんにせよ、エリートさんだよ」 雪虎を見上げ、次に浩介を見上げた真也の耳に、 「…そんなこともありましたっけね」 惚けた声が聴こえる。雪虎は舌打ち。 「民間の警備会社にでも入ればいい待遇受けられんじゃないのかって言ったんだけどな。聞かないんだよ、コイツ」 荒く息を吐きだし、雪虎は首を横に振った。 「仕事にしたら、守りたくないものも守らなきゃならないでしょ」 浩介は、へらりと笑う。 「当たり前だろ?」 何言ってんだと切り捨て、雪虎は話を切り替える。 「タクシー呼んだか、後輩」 「はい」 「よし。それから、バイト」 キツネにつままれた心地で目を丸くしている真也の頭を、一見乱暴に、雪虎は柔らかく撫でつけた。 「悪かったな。諸悪の根源には、謝罪させるから、それで勘弁してくれ」 「ええと…はい?」 数日後、家へ菓子折りを持って謝罪に来た、別世界からきたような麗人が御子柴の後継者の妻と知って真也が青くなるのは、さらにその数日後の話。

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