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日誌・37 お姫さん
一瞬、何を言われたか分からなかった。だが、察するのはすぐだ。
なんだった? ここへ来た、本来の、大河の目的は。
そう、昨夜、保留にされた大河の質問が、一つ残っている。
――――――この宴の首謀者はあなたですか。
大河は、一気に我に返った。真っ直ぐさやかを見返す。
「どうかしら。この説明で、理解できる? トラちゃんは首謀者じゃないわ」
説明に悩む態度で、さやかは続けた。
「トラちゃんが、朝は忙しいから、もしトラちゃんが来る前に御子柴くんが目を覚ましたら、説明しておいてくれっていわれてるんだけど」
「トラさんが、ここでなにをしているかは、理解しました」
大河も考え考え、言葉を紡ぐ。
「ただ、その行動が、僕が知りたい情報と、…どう、つながるかが読めません」
ああ、とさやかは頷いた。
「さすがにこれだけで察するのは難しいわよね」
雪虎が首謀者でなさそうなのは察したが、では彼は事態にどう関わったのだろう。
「…一番の問題は、この馬鹿げたパーティの中で、消えた人間がいるってことでしょ」
さやかは人差し指を立て、左右に振った。
「場から消えてしまえば、誰も思い出さなくなる、そんな子たちがいた。―――――そう、誰も、思い出さないはずの、人間が」
大河は、あ、と小さな声をこぼす。
「まさか、トラさんは」
少し呆れ気味に、言葉を紡いだ。
「ご飯を食べずに帰ったら、そんな相手でも覚えていて、…追いかけたんですか?」
「もっとはっきり、呆れていいのよ」
さやかは、淡々。その口調のまま、続けた。
「そうやって追っかける中で、トラちゃんは、気付いたわけ。…人が、消えていくことに」
大河は、ゆっくりと大きく息を吸い込んだ。
―――――ああ、これか。これが、きっかけなのだ。
雪虎は、首謀者、どころではなく。
…今の話が本当なら、雪虎は、妙な男だ。
つまり彼は、誰もが簡単に忘れ去る相手のことも、見過ごさなかったということで。
誰からも見向きもされない被害者側から、彼らの危地に気付いた、…稀な、存在なのだ。
通常ならば、加害者側から追わなければ見えもしない事態のはず。
それを、彼は。
存在の薄い、被害者側から踏み入った。
さやかは独り言めいた声で言う。
「ちゃんとしたメシ食わないから、思考回路がおかしなことになるんだよ、っていうのがトラちゃんの持論なのよ」
すぐ、声の調子が変わり、さやかは冷たく言い放った。
「取るに足らない連中なんて、自業自得って、放っておけばよかったのに」
落ち着き払ったような口調の底に、微かな焦燥と危機感が潜んでいる。
察するなり、大河も、ひとつの可能性に思い至る。
そうだ、もし、雪虎が事態に気付いてしまったのなら。
「…もしかして」
大河は、つい、眉をひそめた。
「―――――加害者側が、気付いたんですか。トラさんが、気付いたってことに」
間違いない。雪虎は、知らずに深入りしたわけだ。
ならば、雪虎の立場は、瀬戸際にある。今現在も。
一歩間違えば、彼も被害者になる状況にあるのではないか。
気付くなり、大河の腹の底がざわついた。なんとなく、落ち着かなくなる。
さやかは答えなかった。無表情で、大河を見返す。そして、別のことを口にした。
「言わないのね」
「何をです」
「冷たいって」
それはさやかが、被害者たちを、放っておけばよかったのに、と言い放ったことに対して、だろうか。
大河は穏やかに微笑んだ。
「僕は大筋で、さやかさんに同意見です。…冷たいですか?」
「頼もしいわよ?」
言いながら、さやかは探るように目を細めた。
「御子柴くんの言う通り、トラちゃんが気付いたってことに、相手も気付いた。だから、トラちゃんには、あえてここに入り浸ってもらってるの。その間に」
切れ味鋭いさやかの眼差しに、霜が降りる。
「わたしたちは、相手の尻尾を掴むつもりでいるわ」
わたし『たち』。…複数形だ。つまり、さやかには仲間がいる。雪虎以外の。
察するなり。
―――――バンッ!
いきなり、部屋のドアが開いた。心臓が飛び出るかと思ったが、幸か不幸か、大河の顔には出ない。
誰も入ってこないんじゃなかったのか、と振り向くなり。
「起きてたか、もっと寝ててもいいのに」
安っぽいトレイを持った雪虎が、ずかずか部屋へ入ってくる。
その醜さに思わず目を逸らし、内心、大河は呻いた。昨夜は大概、平気だったのに、日が変わると感覚がリセットされてしまうようだ。
ただ、もう一度、そろりと雪虎を盗み見れば。
相変わらず、…びっくりするほど男前だ。
いい加減、慣れた気がするのに、相変わらず、最初に見るのは心臓に悪い。
「メシ持ってきたぞ。おにぎり二つとみそ汁くらいしかないけど。何が好きか分からなかったから、中身は梅干しな」
ベッドの上に置かれたトレイから、たきたてのごはんの甘い香りと、みそ汁、緑茶のかおりがたちのぼった。
「あ、…ありがとう、ございます」
面食らう大河。反射で礼を言う。とたん、雪虎がニッと笑った。いたずら小僧めいた顔だ。
たちまち、雪虎の雰囲気が幼くなった。はじめて見る表情に、大河は軽く目を瞠る。
「どういたしまして、それから、おはよう」
「おはよう、ございま、す」
普通に挨拶を交わして、戸惑った。
昨夜の淫靡さとのギャップが激しい。今朝の雪虎は、健康的だ。いつもの陰気さもない。ああ、帽子をかぶっていないのか。
つらつら思うなり、雪虎がてきぱき告げる。
「まぶたが腫れてるな。後で蒸しタオル持って来てやる。いや、冷やした方がいいのか? アイスノンと両方持ってくるか。腰も辛いだろ。御曹司が気絶してる最中も、俺、止められなかったからな。まだゆっくりしていけ」
―――――今、とんでもないことを言われた気がする。
あまりの告白に、呆気にとられた大河の頭から、言葉が滑り落ちた。
なんにしたって、大河も大概、体力はあるほうだが、それが気絶したのだ。その上でまだ足りなかった雪虎は、相当な、
(…絶倫…)
としか思えない。大河はもう、空っぽだ。
黙り込んだ大河に何を思ったか。不意に、雪虎は身を屈めた。
「いいだろ、ちゃんとある程度で切り上げたぞ、俺は。俺が満足するまで思い切りヤったら、御曹司は女が抱けない身体になるぞ」
とんでもないことを囁き、大河の頭を撫でる。すぐ身を起こし、さやかを見遣った。
「おはよう、お姫さん」
「おはよう」
挨拶をすぐ返したが、さやかの表情は苦い。
「トラちゃん、子供じゃないんだから、もうその呼び方やめてよ」
どうやら『姫』呼びは苦手のようだ。やりにくい、と顔に書いている。
「せめて人前でくらい普通に呼んで」
「お姫さんはお姫さんだろ」
さやかの抗議をどこ吹く風と受け流し、
「説明しといてくれたか」
雪虎が言うのに、ため息をついて、さやか。
「伝えたわ」
「ありがとうな」
雪虎はすぐ大河を振り返り、悪いな、と謝罪。
「本当は俺から説明すべきなんだけどな、朝は忙しくて」
「おーい、トラくん」
また、入り口から声がして、ひょろりと長身の男が、顔を出した。
「お湯の沸かし方ってどうやるんだっけ」
「それくらい一人でできるようになれよ、画家」
ウンザリ言いつつ、雪虎はすぐ踵を返す。
「それじゃ、あとでな」
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