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日誌・38 家主
出て行った雪虎と入れ替わるように、湯の沸かし方を聞いた長身の青年がのそりと部屋に入ってきた。ドアを後ろ手に閉める。
やたら猫背だ。手に小さなノートパソコンを持っている。見た目、年齢不詳。
若いが、学生ではない。
不揃いの髪は半端に長く、その前髪の間から、彼は大河を見遣り、
「おはよう、はじめまして、御曹司くん。ここの家主です」
気の抜けるような声で、声をかけてきた。たちまち、大河の視線から温度が抜ける。
(…家主)
にしては、若い。この豪邸の持ち主とはとても思えなかった。
すかさず、さやか。
「信じられないけど、事実よ。コイツ、こう見えて、芸術家でね。パトロンが多いの」
「頼んでないのに、モノをくれるひと、多いよね、世の中」
どこまで本当か、のんびりと、とんでもないことを言うものだ。
ひとまず大河は笑顔を作って、挨拶を返す。
「はじめまして」
「うん。礼儀正しいけど、ちょっと怖いかな…なんで?」
「ばかね」
首を傾げる青年に、さやかはこめかみを押さえた。
「家主なんて言うから。昨夜の騒ぎの発案者かもって思われたのよ」
「ええ? ないない、こっちは単に場所を提供しただけだよ」
どうでもよさそうに対応し、青年は持っていた小型のノートパソコンをさやかに手渡す。
「あ、さやかくん、これ、頼まれてたもの」
「早いわね」
さやかが受け取り、画面を覗き込むのを見下ろしながら、青年は猫背ながら胸を張った。
「そりゃ被写体がすごくきれいだったから。編集に力も入るよ」
「元データは?」
「それに入ってるので全部」
「そ、ありがと」
パソコンを操作するさやかから、大河へ視線を向け、青年はにこにこと話しかけてくる。
「不思議だなあ。トラくんときみ、似てないのに似てるんだよね」
前触れなく、いったい、何の話だろう。
面食らう大河に対して、青年は。
屈託なく、警戒心もなく、昔からの知り合いのように、親し気な態度で接してくる。
かと言って、馴れ馴れしいとも思えない、不思議と柔らかな物腰に、さすがの大河も少し毒気を抜かれた。とはいえ、
「似て…ますか」
複雑な心地になる。
嬉しいとか嫌だとか思う以前に、客観的に見て、どう考えても、雪虎と大河は似ていない。
「ああ、外見とか性格とかじゃなくって…なんていうのかなあ」
ううん、と青年は大きく首をひねる。言い遂げられないものを言うように、言葉を選びながら呟く。
「本質っぽいもの? が、ね。なんだろうねえこれ」
「それなら、思い当たるものがあるわ」
さやかが口を挟んだ。
「噂で聞いた話だけど」
ちら、と切れ長の目を、大河へ向ける。
「御子柴家も古い血筋で、伝承があるんですってね」
「『も』、ですか」
では、さやかの家も、ということか。いや、話の流れから考えれば。
「それは、トラさんの家も、ということですか」
「遠縁に、血統書付きの家系があるのよ」
当たりだったらしい。さやかは頷いた。ただ、気のせいだろうか?
いつもの歯切れがいい彼女らしくなく、微かに言い淀んだ。
気付かなかったか、青年の方が興味津々で身を乗り出す。
「へえ? 聞かせてよ」
「あとでね」
青年を、素っ気なくさやかはあしらい、
「この部屋」
怜悧な瞳を大河に向ける。
「VIPルームって言ったでしょ」
語調に、仕切り直しの気配を感じた。
なるほど、―――――どうやら、これから本題に入るのだ。
主導権は今のところ、さやかにある。大河は視線で、彼女に続きを促した。
さやかは部屋を見渡すように、ぐるりと視線を向ける。
「特別な部屋で、特別なお客様を招く場所。だから、…そこら中に、カメラが設置されてるのよ」
―――――。
大河は無言で、さやかの手にあるノートパソコンを見遣った。そして、先ほどの、青年とさやかの会話を思い出す。
ではまさか、そのパソコンのデータの中には、今。
大河が状況を飲み込んでいる間に、さやかは淡々と言った。
「トラちゃんは知らないわ」
「理由はねえ、家主のぼくが話してないから」
幼子のように無邪気に、青年が言う。
「なんでかって言うと、話すとこの部屋のこと、トラくんは絶対避けるから」
「見られる趣味はないって怒鳴られてたものね、以前」
さやかの言葉に、青年は恥ずかしそうに頬をかいた。
見られたくはない、とつまりは本人からやめろと言われているにもかかわらず、止めていないわけだ。
と言うのに、
「それは困るんだよ。ぼく、トラくんのセックスが見たい」
まったく悪びれないどころか、青年は開き直った。
「悪趣味ね」
呆れた顔で、さやかは青年を見上げる。
「なんでそんなに、トラちゃんのセックス見たいのよ」
「うーん。ほら、セックスって、あんまり乱れすぎると、みっともない表情やらだらしない格好やらになるでしょ」
それがいいって場合も確かにあるけど、と青年。
「けどなんでか、トラくんが抱くと、最中の相手って、すごくきれいに見えるんだよ。乱れてるのに、乱れが一つもないって言うか…」
説明に困るけど、と青年は感心したように頷く。そして、信じられない言葉を言い放った。
「だからぼくでも勃起できるかなーっていつも期待してるんだよね」
さりげないが、爆弾発言だ。つまり、自分は勃たない、と青年は今、告白した。
一拍置いて、気遣うように、さやか。
「…できたの?」
「いや、ぜんぜん」
重い話のはずが、あっけらかんとした態度だ。
「トラくんのセックスっていやらしいっていうより、ぼくから見たら、なんか感動しちゃって。だから、見たいんだよね」
そこで、青年は大河を見た。
「話の流れで分かっただろうけど、ぼくのモノは反応しないんだ。知ったからってどうもしないだろうけど、のぞき見したお詫びって言うか」
話しかけながらも、大河の反応を待たず、青年。
「どれだけエッチなもの見ても、自慰をしようとしても無理。だから、昨夜のエッチ見てもオカズにしてないから安心してね」
そんな風に言われたが、そのあたりのことは、大河にはどうでもよかった。
過ぎたことは、過ぎたことだ。それに。
―――――御子柴家は、金と暴力の家系だ。
表向き、清潔で近代的、そして洒落ている、そんな印象があるようだが、…違う。
少しでも気に入らないと考えたなら。
どんな汚い手でも平気で使って、平気で消せる。落書きに、消しゴムでもかけるのと同じ感覚で。
だから今、この場所で起きているいっさいを、力づくで消してしまう方法だって、大河は取れる。
ただ、それをすれば。
(知りたい情報が、逃げてしまう)
大河が、破滅的な行動を取らないのは、ただ、それだけが理由だった。
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