50 / 197

日誌・49 お人形さん

身体についた勢いのまま、雪虎は少し、アスファルトの上を滑った。 痛い痛い! 皮膚に走る痛みを堪えたわずかの間に。 突如悲鳴じみた声が、背後で夜空に跳ね上がる。それが、今度ははさみで切ったみたいに唐突に途切れた。直後。 黒電話の音が、雪虎の頭から少し上で鳴り響きだした。おそらくは、雪虎がいた車のトランクの中からだ。 聞き覚えのあるこの音は、おそらく。―――――雪虎のスマホの着信音。 訳が分からない。雪虎は顔をしかめた。 つまり、雪虎を攫った相手は、わざわざスマホも一緒に持ってきたわけだ。 雪虎のスマホを使って、誰かと連絡を取ろうとしていたのだろうか。 考える合間にも―――――鼻先に、鉄錆に似た匂いが漂ってきた。 雪虎は今、アスファルトの上で横向きに転がっているわけだが。 身を起こして周りを見る気にはなれない。 その雪虎の顔の前に、 「これ、トラさんのスマホじゃない?」 膝をついた誰かが、賑やかな音を立て続けるスマホを差し出してきた。 半眼になった雪虎の前で、スマホで遊ぶように小刻みに振って見せた相手は。 「…」 風見恭也。殺し屋。 見上げなくても分かる。だから、見たくない。必要なかった。だが、おそらく。 (目を合わせないと拗ねるんだよなあぁ…) そんなの、指摘すれば本人は涼しい顔で否定するだろうが、事実だ。 今までの経験が、早く目を合わせろ、と雪虎の中で警鐘を鳴らす。 横倒しになったまま、雪虎が渋々、視線だけで見上げれば。 相変わらず、非現実的な美貌がそこにあった。 はじめて見た相手はおそらく、夢に迷い込んだような心地になるだろう、怖いくらい整った造作。 だがその美は、御子柴大河のような、洗練の粋にあるモノとは違う。 恭也のそれは、―――――野放しの野性。 誰にも支配されない、支配を許さない、自身の自由をしっかりと握ったものだけが持つ、天然の強さに満ちている。 雪虎を見下ろしていた彼は、目が合うなり、にっこり微笑んだ。 それだけで、満開の花が咲いているかのような華やかさと明るさが場に満ちる。 びっくりするほど鮮烈で、艶やかな表情を浮かべ、何を言うのかと思えば、 「どうせ噛ませるなら、色気のある道具にすればいいのに」 「…」 恭也は雪虎に何を求めているのだろう。 それに、目の前で騎士のように跪いていながら、ごろんと転がった雪虎を助け起こすつもりはないらしい。 もちろん、そんなことを期待できる相手でないのは、知っている。 それでも、せめて、雪虎の全身を面白がる目でじろじろ観察するのはやめてほしかった。 パジャマ姿が珍しいのだろうか。 そう言えば、恭也と会うときはいつもツナギだった。 こういった態度のせいか。 どれだけ洗練された所作をしても、野生の獣めいた雰囲気がまったく消えない恭也を、雪虎は呆れた目で見上げる。 解放はいつだろう。 雪虎が遠い目になったとたん、猿轡が外された。 目の前の恭也は、スマホを差し出したまま動いていない。では誰が。 (まだ、もう一人) 刹那、警戒が沸き起こったが、―――――すぐ、思い出す。 そう言えば、先ほど、少女の声がした。 身体から力を抜きながら、雪虎は恭也とは違う方へ顔を向けつつ、ごろりと転がる。 「はずしてくれてありがとな、お人形さん」 あの声は、間違いない。恭也の代理人―――――黒百合の声だ。 どこまでも可愛らしい少女だが、今日も今日とて、人形めいた無表情に違いない。 確信をもって転がり――――――ギョッとなる。 黒百合は相変わらず、愛らしい。…愛らしい、が。 「…なんで服着てないんだ?」 黒百合は、雪虎のすぐそばでちょこんと正座していた。 その恰好というのが。 煽情的なブラジャーにショーツ、ガーターベルトにハイヒール。 頭にはメイドがするようなヘッドドレス。 その上で、手には拳銃。 推定二十歳前後の娘さんが、そんな姿で、堂々と外にいる。 隠したいのか見せつけたいのか、…ちょっと分からない。 肩口で切り揃えた黒髪をさらりと揺らし、黒百合は答えた。 「男の人の油断を誘うには、女の裸が一番だと教えられたので」 「うおい、教えたヤツ誰だ」 「え、でも、素っ裸にならなかっただけ、遠慮した方だよね?」 知っていたが、彼らの常識はズレている。 とはいえ。 小さな女の子が、パンツ一枚でちょろちょろしてたら真っ当な大人は全員、こう言うはず。 雪虎は真面目に告げた。 「身体を冷やすから、何か着なさい」 人形めいて無表情な少女は、顔色一つ変えない。それでも、素直に頷いた。 「仰せのままに」 結局のところ、黒百合という少女は、自分で考えることを放棄している。 そんな彼女が、無言で、前を指さした。つまりは雪虎が背を向けたほう、―――――恭也の方だ。 雪虎が顔だけ向ければ。 「ん、出るの?」 恭也が楽し気な態度で、スマホを差し出した。 誰がかけてきているのか、しつこいくらい着信音が鳴り続けている。 しぶしぶ、画面に目を凝らした。そこに浮かんだ名前は、 「…あぁ? 腹黒?」 雪虎は低い声で呟いた。顔をしかめる。 悪友にして、幼馴染、かつ、優等生にして、―――――雪虎の天敵。 歳をとるごとにますますお腹が真っ黒になる彼の名を、結城尚嗣という。 雪虎の表情に、 「出なよ、うるさいし」 頓着せず、恭也が勝手にスマホを操作。止める間もなく、スピーカーに切り替える。 『遅い』 いきなり、不機嫌極まる低い声が跳ね上がった。 尚嗣からの着信には、尻尾を振って反応する人間が多い以上、待たされるのには慣れていないのだろう。相変わらずだ。 日常的に優先されるのが当たり前の人間は、本当に扱いづらい。 げんなりした雪虎の返事も待たずに、 『今どこにいる』 「どこって…外だな」 十代だったら、どこだっていいだろう、と反発したが、付き合いの長さのせいで、ある程度は慣れてしまった。 端的に答える。余計なことは言わない。 周りから不吉な鉄錆の匂いがする、とか。 両手両足縛られてます、とか。 前と後ろにコロシを生業としている人間がいる、とか。 何も知らない尚嗣は、ふん、と鼻を鳴らした。 『相変わらず間抜けな返事だな』 雪虎の口元が引きつりかける。何か言おうとして、最後はため息に変わった。 尚嗣という男が、何か一つ文句をつけないと気が済まないことは、よく知っている。 『いくら間抜けでも聞くだけはできるだろう。理解は求めない。だからよく耳を澄ませ』 さすがに返事をする気も起きない。 雪虎が、右から左へ聞き流す態勢に入った途端、―――――爆弾が落ちた。 『死神がお前のところに現れたら、そこに引き留めておけ。絶対、移動するな』 は? 雪虎が既に見覚えのない道路の真ん中にいることを知らない尚嗣が言う、そこ、とは。 雪虎が言う『外』が、雪虎が仮の住まいにしている部屋の、近所とでも思ってのことだろうが。 (コイツ、なんで殺し屋が俺のところに来るって知ってんだ) 雪虎は恭也を見上げる。すぐ、目が合う。 いつものように、雪虎の顔をじっと見ていたようだ。 珍獣の観察、という意味合いを強く感じる眼差しで。 目が合えばうっとりするような微笑みが向けられる。が、目が笑っていない。 この生き物が、雪虎の求めに応じてくれるとはとてもではないが思えなかった。 「いや無理だろ」 即答にもかかわらず、 『頭を使え。いや、お前の得意は、身体を使う方か』 侮蔑を含んだ声だ。つまりはソッチの意味で言っている。 「俺が従うメリットは?」 さすがに低い声が出た。すぐ、さらにバカにした声が返ってくる。 『お前自身のためだ。ついて行けば、いつも以上の面倒ごとが待ってるぞ。じゃあな』 肝心なことは何も言わないまま、尚嗣は通話を切ってしまった。 あまりの自分勝手さに、怒るより呆気にとられる。 (…いつも以上、な) 相変わらず、苛立たせてくれる相手だ。 目の前のケダモノは、通話の切れたスマホを面白そうに見下ろした。 「―――――へえ? 面白いな。トラさんの知り合いに、アッチの人間がいるなんて」 …ああ、ほらほら、既にもう、極端な面倒ごとがはじまった予感がする。 とりあえず。 こいつらに、媚びたり、乞うたりするのは逆効果。 縛られていることが不快だと、軽く体を動かして示し、あえて不遜に、雪虎は言った。 「まずは、ほどけ」 アスファルトの上で転がったままでは、単に間抜けなだけだったろうが。

ともだちにシェアしよう!