51 / 197
日誌・50 きらきら
× × ×
雪虎は思い出す。
三十分前。
車から降りる寸前、恭也が言った言葉を。
―――――いいね、トラさん。
かつてない緊迫した雰囲気で、恭也。
―――――車から降りて、一言でもしゃべったら、命の保証はできないよ?
雪虎は神妙に頷いたものだ。
(なのにこれはどういうことだ)
今。
雪虎は、高価そうな店の奥の更衣室で一人、値札を取ってもらった服を身に着けている。
鏡に映った自分の姿を見て、普段選びもしない服を着てるな、と他人事のように思った。値段は考えたくない。
さて、この状況をどう見るべきか。
昨夜、恭也たちと合流して、ずっと雪虎は車の後部座席で横たわっていた。
クスリの影響か、しばらくは座ることもできずにいたからだ。
乗っている車がずっと移動しているのは気付いていたが、雪虎は何も聞かなかった。
家に送るつもりで動いているのだと勝手に思っていたからだ。
結論から言うと、―――――浅はかだった。
スマホが手元にあったのは幸いだ。
起き上がれないなりに、会社に連絡を入れることはできていた。軽く事情を説明―――――と言っても、事情ははっきりしないが恭也と一緒にいる、と伝えただけだが―――――達者でな、という専務の返事を聞いて、通話を切った後も、頭が重くて動けなかった。
起き上がれない間も、恭也と黒百合は車での移動を続け。
そして、現在。
時計は午前10時30分を回っている。
服を着こんだ雪虎は、大きく深呼吸。思い切ってカーテンを開ければ。
腕を組んで外で待っていた恭也と目が合った。
恭也はサングラスをかけていたから、そんな気がした、というだけだが。
しばし、無言で見つめ合い―――――雪虎はたまりかねて尋ねた。
「これはどういう状況だ」
パジャマにサンダルという格好で、いきなり知らないテナントビルに引っ張り込まれたのは、つい先ほどの話。
きらきらしい今時の商品を並べた、高そうな店舗が複数入った店内を、恭也と黒百合が雪虎の手を引いて歩く。
正直、戦々恐々としていた小心者の雪虎には、周囲の状況などきっちり見えていなかったわけだが。
きっとおそろしく目立っていただろう。
この建物の中で、一番きらきらしているのは、目の前の男と、離れた場所で会計している娘だ。
考えただけで頭痛がする。
その状態で、入った店で、雪虎は無言のまま売り物の服を押し付けられ、着替えて来い、と恭也に更衣室を示された―――――正直、死刑台に立て、と言われるような得体の知れないプレッシャーがあった―――――わけだが。
いや、そもそも。
不思議なのは、恭也だ。
この、周囲に破滅の嵐をもたらす男が、普通に、こんな町中に立っているのが、一番の謎である。
そして、周囲は平和なまま。いつもの、阿鼻叫喚の地獄が起こる気配はひとつもない。
その戸惑いもあって、今まで沈黙していたわけだが。
「あっはははは!」
恭也が、楽し気な笑いを上げた。
明るい中で見れば、冗談かと思うくらい、スタイルがいい男だ。
身体のラインが、いちいちおそろしいほど魅惑的である。
触れて、撫でてみたい、という欲求を抱かずにいられる人間は少ないだろう。
そして、嫌味なくらい、サングラスが似合っていた。
(やっぱり、日本人の骨格じゃないよな)
その向こう側では、雪虎が着る服の値札を取ってくれた店員に、黒百合が会計を済ませているのが見える。
ああ、会計…買ってもらうというのは落ち着かないが、パジャマでうろうろするわけにもいかない。
そしてきっと、…勘に過ぎないが、雪虎がこういう状態になっている原因は、恭也たちにある。
買ってもらおう。
どうしても気になるなら、あとで別の形で返せばいい。
黒百合はなぜか、古式ゆかしいメイド服姿だ。
ふと、月杜家の使用人を思い出し、小さく頭を横に振った。
もう、なにからどう聞けばいいのかわからない。
悩む雪虎に、恭也が楽しそうに声を弾ませた。
「いつまで黙ってるのかなって思ってたよ。そう、ここには、単にショッピングを楽しみに来ただけ。なんの危険もないよ。今はね」
今は。
含みがある物言いだ。
恭也が、ひょいと顔を覗き込んでくる。
そのまま、サングラスを顔の下へずらした。紺碧の瞳が覗く。上目遣いに、雪虎を見て、
「ただ、今日、町に出て、何も起こらないかどうかは、ぼくにも賭けだった」
「賭けって…周囲の安全を、どっちに傾くか分からない天秤に乗せたのか?」
絶対、恭也は知っているはずだ。雪虎が、その鮮烈な青色に心底弱いことを。
なおかつ、上目遣いと来た。
もともと年下の甘えに弱い性質も相まって、ここまで好き勝手をされても、どうしても怒りが湧かない。
「いいじゃない。結果が、こうなんだから」
「こう、ね」
雪虎は、周囲を視線だけで見渡した。…平和だ。少し眠たくなるくらいには。
だがその光景の中に恭也が立っているのは、違和感が強い。
「どうなってる?」
「説明した方がいい?」
「気になる」
雪虎は素直に答えた。
意外だったか、恭也は一瞬、唇を生真面目に弾き結ぶ。すぐ、嬉しそうに微笑んだ。…嬉しい? なんで。
「そう? じゃ、話すけど、まずはどっかに座ろうか。…あ、終わったみたいだ」
恭也が見遣った先で、会計を終えた黒百合が振り向く。
彼女を手招き、一方で、恭也は雪虎の手を引いて歩き出した。
空きスペースに設置してある机と椅子に向かう。自然に手を引かれて続いたが、
「…おい」
刹那に、ドン引きするくらい、人目が集中したのに気付いた。
思わず、恭也の手を振りほどく。
―――――今までどうして気付かなかったのか。自分の間抜けさに舌打ちした。
恭也と黒百合は目立ちすぎる。
彼らに向かう憧れと感嘆の視線から逃れるように、雪虎は上着についたパーカーを引っ張り、目深に被った。
彼らと一緒にいるのは心地が悪い。
二人と違って、雪虎が目立つのは、悪い意味でに決まっているからだ。
先に椅子を引き、どっかと腰掛ける。
「ちなみに―――――ソレだけどさ」
恭也が座った雪虎に手を伸ばし、パーカーの端を引っ張った。
今、恭也が言った、『ソレ』というのは、雪虎が、周囲にとびきり醜悪に見える、あの現象のことだろう。
「もしかすると、治せるかもしれないよ?」
「あ?」
雪虎は顔をしかめた。
最近、似たような台詞を聞いたことを思い出したからだ。
言ったのは、―――――月杜秀。
「…どうだっていい」
低く抑えた声で吐き捨て、雪虎は大きく息を吐きだした。
「俺はともかく、あんたらは本当に目立つな」
雪虎に続いて、恭也と黒百合が座ると、視線の集中豪雨だ。痛い。
あまり長く一緒にいたくはなかった。が、恭也がここにいて、周囲で何も起きないのが、本当に気になる。
ともだちにシェアしよう!