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日誌・51 ルール
「誰かと追っかけっこしてるんなら、この状況はまずいんじゃないか」
ぐるりと周囲を見渡し、―――――直後、周囲の視線がなかなか怖いことになっていることに気付いて、さり気なく目の前の丸テーブルの中心に目を戻した。
ふと落書きに気付き、消したいと思ったのは、認めよう、現実逃避だ。
「え、ごく普通に、ぼくは平和な街中に馴染んでると思うけど」
「あんたは存在がうるさい」
「恭也さまはともかく私自身には問題はないかと思います」
「メイド服以外を選んで出直してこい」
反射で突っ込んだ直後、きょとんとした二人の態度に、おかしいのは俺かな、と雪虎は思いそうになって踏みとどまった。
…まあ、二人がノープロブレムというなら、それでいい。
パジャマを入れた紙袋を椅子の背もたれ側に置いて、雪虎は気が抜けた気分で両足を伸ばした。胸の前で腕を組む。
そもそも、状況について、あまり詳しいことを聞くのは、ルール違反だろう。
恭也たちは、仕事が仕事で。雪虎に至っては、その仕事の下請けの下請けなわけだ。出すぎるのはよくない。
精神的にも、むしろ、知らない方がいいに決まっている。
黒百合は淡々と結論した。
「ひとまず、ご安心を。誰も想像しませんよ。あの死神が、なんの騒ぎも起こさず、街中を歩いているなんて」
「そこだ」
今までの経験からして、恭也がいる場所で、何も起きていない方がおかしい。
「どうなっている?」
「トラさんと一緒にいるからです」
無表情で、黒百合。
雪虎は首を傾げた。黒百合は、それ以上を言ってくれない。
なんとなく恭也を見遣る雪虎。恭也は無言で見返してくる。
これは…なんだろう。その言葉で理解できない雪虎が悪いのだろうか。
「ああ、…そうだな?」
確かに、雪虎と恭也は一緒にいる。それが?
古式ゆかしいメイド姿の黒百合は、どこにしまっていたのか、おもむろにiPadを手元に構えた。
「できれば、お二人は触れあっているのがベストかと」
「それなら、こうしようか」
恭也が手を伸ばし、雪虎の膝に手を添える。機嫌よく、子犬にでもするように撫でてきた。
どこのセクハラ親父だろうか。
「いや、なんでそんな必要が…ってか、説明が足りない」
口を挟んだ雪虎を一度真っ直ぐ見つめ、
「仕方ないですね」
呟いた黒百合の表情は変わらない。
だが、物わかりが悪い子にどんな言葉で言えば伝わるかを悩む先生みたいな態度だ。…ちょっと傷つく雪虎。
黒百合は液晶画面に目を落とした。
「数々の検証の結果」
何かの発表をする学者めいた口調で、事務的に黒百合は告げる。
「トラさんがそばにいて、ある程度の条件が揃えば、恭也さまがもつ破滅にまつわる影響力が薄れるということが判明しました」
やはり、何を言われたのか、雪虎には理解が難しかった。だが。
「は?」
じわじわと意味を理解する途中で、察しの悪い声を出せば、
「前からその確認はしてたんだよ」
恭也が思わぬことを言う。
「日本での仕事の時にね、会ってたでしょ? そのとき、…正確には、トラさんとシてる最中に、周囲への影響がどうなってるか、黒百合に調べさせてた。…トラさんと一緒の時、周囲の状況がなんかおかしいって気づいたのは、一年位前だったかな」
雪虎の膝を掴んでいた恭也の手が、つ、と滑り、腿の上へ。
びくり、知らず、身が震える。くすぐったい、というか…むずむずした。
「会ったばかりの頃はそんなことなかったよね。一緒にいても、周りは大騒動。なのに…不思議だね? 今は違うんだ」
「最終テストは、この間の仕事の時です。ターゲットと一緒の部屋で行為に及んでもらいました。結果は」
―――――待て待て待て。
確かに雪虎は大概ろくでなしだが、黒百合のような女の子に、恭也といたしていることを普通の顔で語られるのは、精神的に少しクるものがある。
心に大きなダメージを負いながら、雪虎は耳を塞ぎたい衝動を堪えた。
「トラさんと一緒にいた間は、ターゲットの不幸が激減しました」
あの状況は、そんなことを調べるために用意されたのか。でもたぶん、趣味も入っている。
…いや。だが、あの時。
あることを思い出し、雪虎はじろりと二人を睨みつけた。
「嘘つけ。今度は騙されないからな」
この店にやってきたときのように、また雪虎をからかって遊ぼうとしているのだろうが、そうはいかない。
「信用ないね」
恭也は悠然と微笑む。胡乱な目になる雪虎。
「知ってたろ」
「もちろん、その方がお利口と思うよ」
少し前に会った時のことを思い出し、雪虎は強い口調で言う。
「あの時、確かに殺し屋と俺は一緒にいた。けどな」
黒百合が顔を上げた。彼女と目を合わせ、雪虎は声を低める。
「迎えに来てたバイトの身に起きたことを思い出せ」
あの日は、浩介の代わりに、真也が雪虎の迎えに来た。そのとき。
真也のバッグの肩ひもが、いきなり千切れた。
あれは間違いなく、恭也がそこに存在するだけで巻き起こす、破滅の前兆だったろう。しかも真也は、あれは新品だと言っていた。
結局、雪虎が恭也と一緒にいたとしても、周囲への不幸の影響は起きている。何も変わらない。
なら、今。
恭也が問題なくここにいるのは、雪虎がそばにいるということ以外の要因がある。
「信用ないのは、そっちだろう。俺に話したくないなら、そう言えよ。変な嘘つくな」
本当のことが話せないなら、話せないんだと正直に言ってくれた方が、気分的にまだ楽だ。
雪虎は嘘が嫌いだ。不機嫌に、ふん、と鼻を鳴らせば。
「すぐに信じないだろうなって想像はしてたけど…不思議だなあ」
恭也が首を傾げた。雪虎は眉をひそめる。
「不思議?」
「トラさんは、端から嘘って決めつけてかかってる」
「決めつけってな…」
とはいえ、確かに。
恭也が雪虎に、本当のことを話す理由もなければ、嘘をつく理由もないのだ。
「そうでしょ? 普段のトラさんなら、聞いた話が本当かどうか、検証しようとするんじゃない? 試すのなんて簡単だし。それにもし、それがトラさんの体質まで治せるかもしれないものだったなら、余計」
だろうか? 雪虎は自分に問いかけた。だが、…正直、よく分からない。
「これは単にぼくに信用がないのか、それとも」
サングラスの向こうから、強い眼差しが雪虎に向けられた。
「トラさんの自己評価が低いのか」
「両方では」
他人事の態度で、黒百合。
二人の言葉が、一瞬、雪虎の弱いところを突いた。息が詰まる。
恭也は雪虎の言葉を待たず、気楽に続けた。
「まあ、なんだっていいんだよ。大切なのは、そういうことが起こってるって事実だけ。トラさんが信じたり納得したり理解したりは二の次だ」
とても恭也らしい言葉だ。
そしてきっと、当てこすりのつもりなど、ないだろう。
だが雪虎としては、雪虎などどうでもいいと言われているようで、刹那、腹が立つのは仕方がない。
「ああそうかよ」
怒りを飲み込み、投げやりに告げた、直後。
ぐぅ~、と雪虎の腹の虫が鳴った。いっきに、力と気が抜ける。
「…腹減った」
そう言えば、気分が悪くて朝ごはんも食べていなかったのだ。
黒百合のiPadを指さし、雪虎。
「近くに定食屋とかないか」
言って、思い出す。無一文だ。
「ああ、いや、いい」
片手を挙げて、紙袋を持って立ち上がった。恭也の手が離れる。
「ここ、何県だ」
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