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日誌・52 譲歩
どうやって帰ろうか、と雪虎は思案する。
「悪いけど、帰られたら困るな」
察したか、恭也が言った。
とはいえ、雪虎が帰ったところで、さして気にしない風な口調だ。少しは雪虎の事情も考慮してほしいものだ。
「あのな。今日は平日。だからほんとのところ、俺は仕事があるんだよ」
「一日、休暇取ればいいよ。連絡したんだろ」
いつもだが、自分勝手な物言いだ。一言言ってやろうと口を開けば、
「ね、お願い」
恭也が、顔の前で両手を合わせた。雪虎の口から、怒声が引っ込む。
「トラさんが一緒にいるから、ぼくは騒ぎを起こさず町中にいられるわけだし」
「…まだ言うか」
低く唸り、雪虎はスマホを取り出しながら踵を返した。歩き始めた背中に、黒百合の声がかかる。
「ありました。この建物の中に二店舗。すべて一階です。開店は11時。そろそろですね」
仕事が早いな。ちなみに、ここは三階だ。感心と同時に、興味も引かれたが。
まずは自分の位置情報を、とスマホの画面を見下ろすなり。
――――――ジリリリリリリリッリリリリリリリ!!!
けたたましい火災報知機の音が、周囲の平和な空気を乱打した。
ざわり、店員や客たちの間で空気が揺れる。それに並行して、いっせいに鳴り出す数々のスマホ。
「え、火事? どこで!」「なんか煙が上がって来てる、一階かっ?」「発注ミス? 今それどころじゃないって!」「交通事故っ? どこで!」「うわ店長が倒れた! 救急車っ」「うそ、防火シャッターが下りてくるんだけど!」
恭也と一緒にいれば馴染みのパニックに、雪虎は無言で立ち止まった。二歩後退。とたん。
「…あ、シャッターが止まった…誤作動?」
「煙も薄れてきてる…なんだったんだ」
「え、立ち眩みですか、店長。持病もちなんだから、びっくりさせないでくださいよ」
「なんだって、見間違い? …一桁間違いとか、勘弁してくれよ」
「自宅の壁で車をちょっと擦っただけ? 人身事故とかじゃないなら、良かったけど」
火災報知機の音も止まり、誤作動に対する謝罪のアナウンスが流れだす。
雪虎が嫌な汗をかきつつぎこちなく、振り向けば、
「大体三メートルってところかな」
恭也が生真面目に頷いた。
黒百合は相変わらず無表情でiPadを見下ろし、
「正確には、二・五メートルほど。街中でお二人がそれ以上離れたら、危険なのでご注意を。まあ、適度な影響範囲ですね」
平穏を取り戻す周囲の様子に、雪虎は冷や汗が止まらない。
―――――なんの冗談だ。からかうにしても度が過ぎている。
いや、こうなれば、さすがに信じるしかない気もした。それに。
もし、本当に、雪虎が関わることで、誰かの助けになるのなら。
…この、自分ではどうしようもないことで、普通に生きられない恭也が、雪虎がいることで、たとえ仮初でも当たり前の日常を過ごすことが…できるなら。
それは、雪虎にとっても、救いに―――――…。
そう、思いさしたとたん。
―――――ぜんぶ、お兄ちゃんのせいよ。
刹那、やけにはっきりと、記憶の底から、声が蘇った。
ぎくり、思考が止まる。
―――――お兄ちゃんがそんなでなかったら、こんなことにはならなかったのに。
それは、妹の、美鶴の、声だ。反論の意思が萎える。
ただただ、受け容れ、沈黙するしかない。直後、
―――――そろそろ鶴ちゃんの呪縛から解き放たれても、いいんじゃない?
別の声が、泡のように湧いて、妹の声をかき消した。…さやかの、声だ。
―――――自分が努力しなかったことを、あの子はトラちゃんのせいにしてただけ。
…そうかもしれない。
だがもうすこし、雪虎は、美鶴にしてやれることがあったのではないか。
どうしても、その思いが消えない。
―――――トラちゃんは、救われるべきよ。幸せになるべきよ。
さやかは魔法をかけるように、繰り返しそう言ってくれるが、雪虎は未だに足踏みしてしまうのだ。
救われて、いいわけがない。幸せになって、いい…わけが。
雪虎は、しばし沈黙。しばらくして、荒く息を吐きだした。
とにかく、今は目の前のことだ。
何を考えていたか。
そう、恭也がバカげたことを言い出して…。
なっとくは、しかねるが。
ひとつ、はっきりしていることがある。
「で?」
いくらか譲歩した雪虎は不機嫌に尋ねた。
「なにも、その確認をしに来ただけ、ってわけじゃ、ないんだろ」
いつだって、そうだ。
恭也が目の前に現れるときは、常に。―――――仕事がらみ。死神としての。
しかも今回は、どうやらソレに、雪虎はどっぷり巻き込まれているらしい。
ならば、聞いておかなければならないことが一つあった。
「…俺は今、どんな立場だ?」
それが分からなければ、身の処し方にも困る。
そもそも、恭也の仕事に、雪虎は邪魔なはずだ。
だから、最初、雪虎は考えた。
恭也は雪虎をすぐ、家に送り返すだろうと。
現実はそうでなかったどころか―――――恭也は雪虎を見知らぬ町まで連れてきた。
一人になれば、雪虎の身が危険、ということだろう。…そこまで考え、少し戸惑う。
それではまるで、今、恭也は、雪虎を守ろうとしているようだ。
(…だとしても)
そこに、情などない。
少し興味深いおもちゃを他人に壊されるのは業腹だ、と幼い子供めいた独占欲があるだけの話に違いなかった。
二人のいる席に戻る気にもなれず、陰鬱な表情で雪虎は平然とした恭也を睨みつけた。とたん。
彼の、向こう側に。
(あれは…)
明らかに、日本人ではない人間が複数、見えた。
全員、黒髪で、恭也たち以上に周囲に馴染んではいるが、…体格や肌の色が完全に違う。
そのうちの一人と目が合った。刹那、相手が笑みを浮かべる。
だがそれは親し気というより、獲物を見つけた達成感の笑みだ。
ただ少し、その反応に違和感を覚えた。
通常、雪虎を見た相手が真っ先に浮かべるのは、露骨な嫌悪だ。
相手には、それらしい反応がなかった。
しかし今、問題なのは、そこではない。
相手は雪虎から目を逸らさない。どころか、こちらへ近づいてくる足を速めたようだ。
一瞬、雪虎は悩む。
恭也に警句を放つべきか、と。だが。
「…定食屋は一階、だったな」
一階に行くと、低く告げ。踵を返す。そのまま、―――――全力で駆け出した。
恭也と雪虎の距離が開く。
たちまち、毒でも撒いたような騒動が一斉に沸き起こった。
そうだ、相手の足止めを平和に行いたいなら、―――――恭也の影響下に置けばいい。
もし雪虎が恭也のもとにとどまったままでいれば、互いに実力行使に出なければならなくなって、下手をすれば流血沙汰になる。
そっちの方が、問題だった。
何も知らない周囲の客や店員には、非常に申し訳ない所業だが、なに、恭也から離れたら、死にはしない。
罪悪感に蓋をして、なぜか止まっていたエスカレーターを雪虎は一段飛ばしに駆け下りた。
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