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日誌・53 不幸発生装置

× × × あっという間に、雪虎の背中が視界から消えた。 黒百合は無言で恭也を見遣る。 彼の顔に、もう笑みはない。 雪虎と話していた時に見せていた人好きのする雰囲気も、名残すら見えなかった。 雪虎が消えた方を視界に収めたまま、恭也は頷く。 「予定通りに」 二人は揃って立ち上がった。 一種お祭り騒ぎに似た阿鼻叫喚の渦の中心で、黒百合が恭也に深々と頭を下げる。 背中を向け合い、逆方向へ歩き出した。 恭也はサングラスを外す。とたん、露になる―――――青。 顔を合わせることになった追手の何人かが、たたらを踏んで立ち止まる。 震える指で、恭也を指さした。 「し、死神…っ」 「どうしてここに」 「いや、いつから」 呆気にとられた顔が、ぬくもりのない恭也の視線を受けて、恐怖にひきつる。 実力もさることながら、恭也がもたらす真の恐怖は、―――――その存在。 即ち、破滅。 「逃げろ!」 絶叫と共に、一目散に駆け出した組織の実力者たちの必死の雰囲気に引きずられたか、周囲の一般人が彼らに続いて駆け出した。 また、賑やかに火災報知器が鳴り始める。 どこかで本当に火が出たようだ。 足を止め、一度周囲を見渡して。 恭也は秀麗な顔立ちを歪めた。 「…ああ、うるさいな」 とたん、すべてを叩き潰さなくては収まりそうにない苛立ちが、烈火のごとく沸き起こり、―――――。 「そういえば」 次の瞬間には、冷静な表情で、しずかに呟いていた。 「一階に、いるんだっけ」 恭也の唐突な変化は、見る者がいれば不安を覚えたろう。 恭也は雪虎を捜して、ふらりと足先を階段に向ける。 こうなった以上、恭也の追手は…、というより、雪虎を捜している組織の人間は、全速力でこの場を離れるに違いない。 恭也と同じ組織の人間だ、彼がもたらす破滅の怖さは、他の誰より知っている。 雪虎は、一階に向かう、と言った。 この建物から出る予定はないだろう。 自分勝手なようで、周りを考える彼のことだ、歩く不幸発生装置になった恭也を放って出ていくはずはない。 ならば、雪虎はもう安全だ。 別の意味で、危険は継続しているが、恭也の敵対者に捕まるという危険だけは、この場に限れば、もう消えた。 恭也と同じ組織の人間が、なぜ雪虎を捜しているのか。 その理由は。 階段を降りていきながら、恭也は不快気に舌打ち。 (跡目争いの内部分裂とはね。どうやら随分、暇らしい) 組織のトップは健在だが、彼は悪趣味なことに息子たちを争わせることが大好きだ。 今回の恭也の仕事は、ある人物を殺すために送られた同じ組織の人間を殺すことだった。 即ち。 標的となる人間の敵対者と本人から、同じ組織に別の依頼が来たわけだ。 結果が、今回の状況だった。 この、死の遊戯の勝利者が、跡目争いで優位に立つというわけだ。 恭也は、依頼人が殺される前に、同じ組織で依頼人を殺す依頼を請けた相手を殺さなくてはならない。 (ややこしいなあもう) 本来なら、無気力な恭也のことだ。 勝手にすればいい、と投げ出すところだが。 ―――――恭也に仕事の邪魔をされたくない人間に、雪虎の情報が漏れた。 恭也と身体を重ねた人間で、ただ一人、命をつないだ存在がいる、と。 そう、実際に。 今まで恭也と身体をつなげて命があった相手は、―――――雪虎だけ。 彼以外は、全員、もうこの世にいない。 そもそも。 恭也とて、男である。気に入った相手がいれば、抱きたい。 ただし、恭也がどういう存在かを知っていれば、彼に抱かれた相手の成れの果てなど、簡単に想像がつくだろう。 その最期は、すべて、凄惨の一言に尽きた。にもかかわらず。 たった、一人だけ。 …生きている、という話になれば。 その相手は恭也に見逃されている、もしくは、恭也にとっての特別だと周囲は考える。 いまでこそ、その考えには頷けるが、初めは違う。 単なる興味だった。 恭也は、雪虎が生きようが死のうが、どうでもよかった。 なのに。 恭也は薄く微笑む。 (あの人は、自分で自分の命を繋いだんだ) 雪虎は、自力で命を勝ち取った。 この、死神から。 それが、揺るぎない真実。 となれば。 ―――――どうしてそんな存在を、恭也が、その他大勢と同じように扱えるだろう。 しかもまたひとつ、彼は恭也に奇跡をくれた。 …その雪虎の情報を明かしたのは、おそらくは。 (…くそジジイが…) 恭也の青い目に、暗い色が宿る。 この状況、組織の頭が、争いは派手なほうがいい、と意図的に情報を流した可能性が高い。 下手を打てば、組織が自壊する危険を承知の上で、だ。 恭也が潰しにかかる可能性もあるが。 それ以上に。 …注目すべき、厄介な事実があった。 ―――――雪虎が『ツキモリ』の関係者である事実は、世の中の裏事情を少しでも知る人間なら、彼が避けて通るべき人物であると判断を下すはずだ。 しかしその情報が、すっぽり抜けて出回っているのだ。 ばかりか、雪虎は。 …ミコシバとも関係が深い。 雪虎個人ならともかく、その周囲は、どれもこれも手を出せば大やけどするものばかりだ。それなのに。 恭也を遊びに強制参加させるためだけに、組織の上層部は雪虎の情報を半端に公開したに違いない。 とはいえ。 それならそれで、恭也はその裏をかくまでだ。 ここに来るまで、何の騒動も起こさず、恭也が移動していた。 それだけで、敵も味方も見物人も、愕然としただろう。 一階まで降りたところで、恭也は周囲を見渡した。 明かりが消えている。 どうやら、電気系統までお陀仏になったらしい。 外から光は差し込んでいるが、薄暗かった。遠くから聴こえる音は、消防車のサイレンだろうか。 中には、既に、どこにも人の姿はなかった。火災報知機の音はもう止んでいる。 そう言えば、一階のどこに雪虎はいるのだろう。 定食屋なら、スタッフルームあたりだろうか。 通路を歩き出しながら、恭也はスマホを取り出した。 雪虎の番号を見つけ、―――――電話をかける。と。 静まり返った通路に、遠くから、黒電話の着信音が聴こえた。

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