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日誌・54 休憩
× × ×
心臓が口から転がり落ちるかと思った。
定食屋の厨房の奥で、フライパンを握り締めた瞬間。
雪虎は気持ち、絞め殺す勢いで、鳴り始めたスマホを切る。
おそらくあの騒動なら、相手は脱兎のごとく逃げたろうが、まだいないとも限らない。
素人の喧嘩ならまだしも、玄人相手には逃げるが勝ちだ。
かと言って無手では不安が残る。
そんなわけで、フライパンで戦えるわけもないのに、つい武器にならないかと握り締めてしまった。
こんなものを咄嗟に選択するあたりが、やはり、素人だ。
自分に対する呆れが自己嫌悪に変わる寸前、スマホが鳴ったわけだ。おかげで、
マイナスの思考が全部吹っ飛んだ。
思わず周囲を見渡す。
一帯を警戒しながら、薄暗い中で雪虎はスマホの画面を見下した。たちまち、疑問符が顔に浮かぶ。
…知らない番号だ。
ざっと血の気が引いた。
鼓動が早まる。
これがもし、雪虎を追ってくる相手の番号だったら。
このままここにいてもいいのだろうか。
人がいなくなったこの場所で、先ほどの音は耳についたはずだ。
遠くから、消防車のサイレンの音が聴こえる。それ以外は、しずかなものだ。
今なら、ここから飛び出しても大丈夫だろうか。
思うなり、弱く首を横に振った。
建物から出るのは論外だ。
雪虎自身の身の危険もあるが、恭也と合流しなければ、周囲の安全が脅かされてしまう。
(そうだ、殺し屋)
恭也と連絡が取れないだろうか。そこまで考えて、気付く。
(そういや俺、殺し屋のケータイ番号知らないな…)
思うなり。
「…っ」
背後から、抱き竦められた。
片手が口元を覆い、もう一方の腕が、雪虎の腹に回っている。
反射的に暴れようとしたところで。
いきなり、頭上で、パっと電気がついた。
魔法みたいな唐突さ。
…電気系統が回復した、ということは。
「しぃー…」
耳元で、囁き声。これは。―――――恭也。
なるほど、恭也と雪虎が合流したなら、破滅の流れは止まる。
「こっちへ」
後ろへ進むよう促されるまま従えば。
ドアが開く音。
手早く連れ込まれたそこには。
ロッカーが並び、簡易の机やパイプ椅子が設置されていた。
従業員の控室だろう。
ドアを閉め、雪虎の口元を開放しながら、恭也。
「ロッカーのどれかの中にスーツがあるから、それに着替えて。…なんでフライパン持ってんの?」
指摘に、ばつが悪い気分で雪虎は机の上にそっとフライパンを置いた。
「着替えるって…またかよ?」
さっき、服を着替えたばかりなのだが。
「時間がないんだ」
状況についていけない雪虎の前で、恭也は委細構わず、さっとロッカーを開け閉めする。
「ああ、あった」
いくつか開けた後で、中からスーツを二着取り出した。
「それじゃトラさん、こっちに着替えて」
片方を手渡してくるのに、受け取りながら、雪虎は唸る。
「待て待て。明らかにこれ新品だけど」
「それが?」
「つまりは誰かが用意しておいてたってことだろ? そのロッカーに」
「黒百合が手配してただろうね」
「万能かよ…ってか、じゃあ黒百合は、状況がああいう形になって、俺がここに飛び込むってあらかじめ知ってた…いや予測してたってことか?」
首を傾げた恭也は、一度天井へ視線を逃がし、
「なにも一か所に絞らなくても、要所要所に仕込んでればどれかには当たるよ」
一つ頷いて、話はもう終わりとばかりに、上着を脱いだ。
恭也の顔に浮かぶのは、余裕のある笑み。
だが、行動は素早い。
恭也はさっき、時間がないと言った。
なら、もたもたしている暇はない。急いだほうがいい。
疑問を解決するより、恭也についていくことが先決だ。
考えるのは後回しにしなければ、雪虎の命が危ない。
(―――――今までだって、そうだった)
恭也と一緒にいるとき、少しでも考え込むために立ち止まれば命がなかった、という場面が何度あったか知れない。
雪虎にできるのは、せいぜい、嫌味っぽく、大きく息を吐きだすことだけだ。
着たばかりの服に手をかける。
急がなければ。
恭也に置いていかれるわけにはいかない。
何回も着替えることに意味はない気がしたが。
今の雪虎の、ラフな格好とスーツを見比べ、少し納得が湧いた。
もし、恭也と黒百合が、があそこで追手に見つかることを予測していたのだとすれば。
追手に、あの場で雪虎がどんな格好をしていたか、見せつけることを前提に行動した可能性がある。
ゆえに、今、ラフな格好とはまったく印象が異なるスーツに着替えることは、相手の目を欺くのに有効な手段だ。理にかなっている。
恭也からすれば、いちいち口で説明する必要もないだろう、と言ったところだろうが。
やはりもう少し、事前説明が欲しいところだ。
釈然としないまま、下をはき替えようと、ベルトを外した、そのとき。
「トラさん」
真剣な呼び声に、何かあったか、と振り向こうとした、刹那。
「…なんだ?」
後ろから伸びた腕が腹の前に回り、柔らかく抱きしめられた。
すぐ、首筋に温かい何かが触れ、―――――すぅ、と息を吸う音が聴こえる。
いっとき、雪虎は硬直。
(におい、を)
嗅がれた。いや、嗅がれている、現在進行形で。
…反応に困る状況だ。
うら若い乙女でもないのだから、羞恥を感じることはない。
嫌悪を感じるのも、何かが違う。
―――――残る感情と言えば、呆れ、になるが。
次の瞬間、それもすぐに吹っ飛んだ。なにせ。
雪虎の尻あたりに、ナニかが押し付けられたからだ。
? ? ? ? ? ?
…雪虎は、自分が少し足りない人間の自覚はある。だがこの状況で。
―――――性的に興奮するようなことが、何かあっただろうか?
恭也がどうして、今、『そう』なっているのか、理解に苦しむ。
いや、それさえ、現在は脇にやらねばならない状況のはず。
「おい、殺し屋。時間がないんだろうが」
不機嫌に言えば、
「そうだけど、休憩するくらいの時間稼ぎはしてもらわないと」
どういう意味だ。
時間稼ぎをしてもらう? つまり。
今回は、恭也に協力者がいるということだろうか。
雪虎が恭也に従っているのは、当面の危険がどの程度か読めないからだが。
「休憩…って、どのくらいだよ」
明らかに恭也は、―――――発情している。
言い方は即物的になるが、一度抜くくらいの時間が必要、ということだろうが。
後ろから抱きしめられている以上、恭也の表情は見えない。
だが、一度笑った感じが、した。
「ぼくはね、トラさん」
すぐ、真剣な声で言う。
「すごく我慢してたんだ」
だからもういいよね、と恭也の片手が動いた。
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