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日誌・57 野良犬

× × × 夕暮れ時。 街中のオフィスビル。 ここには、世間では大企業と評される会社が入っている。 まあ、恭也にとっては、知っておくべき肝心なところさえおさえていれば、あとはどうでもいい。 ここは地方の支店ではある。 が、規模は本社に次ぐ大きさと聞いていた。 その最上階よりひとつ下にある、会議室の一室。 奥にあるホワイトボード前の、椅子の一つに腰掛け、恭也は時を待っていた。 着替えたスーツでお堅いサラリーマンを装って、一緒に建物の中に入った雪虎は、今、地下の駐車場で黒百合と待機しているはずだ。 この階には今、恭也しかいない。 日中、思わぬ場所に前触れなく姿を現した恭也に、競争相手は焦っているはずだ。 早々に動き出すだろう。 恭也はただ、ターゲットの近くで待っていればいい。 そう、競争のメインディッシュは。 最上階でたった今、会議の真っ最中だ。 この位置なら、恭也がもたらす影響は、上階にまで及ばない。 だが、この階におけるあらゆる機能は。 既に沈黙している。 無機質な無表情で椅子に腰かけ、微動だにしない恭也の姿は、できのいい人形めいている。 その手が、不意に動いた。 ポケットからスマホを取り出す。 その指が淡々と電源を落とそうとした、刹那。 スマホを握る手に、振動が伝わった。 着信だ。 恭也は目を瞬かせた。 このスマホを利用するは、今回一度きりである。 番号を知っているのは、黒百合と、 (トラさん) だが双方とも、この状況で恭也にかけてくるとは思えない。 それとも、緊急事態でも起きたろうか。 スマホの画面を見れば、…見慣れない番号だ。 取る義理はなかったが。 こんなタイミングで、誰も知りようもない番号にかけてきた相手に興味を抱いたのと―――――丁度いい暇潰しになるという気紛れから、恭也は電話に出た。 「はい」 何かの勧誘だったらそれで、この番号をどこで知ったか気になるところだ。 軽い気持ちでスマホを耳に当てた恭也は。 『月杜だ』 物静かなくせに、よく通る、深い声を耳にして、―――――目を瞠る。 一瞬、息さえ止まった。 なのに頭の端で、冷静に呟く自分もいる。 ―――――大物が出てきた。 ツキモリ。 その名、というよりも。 名乗った相手が持つ雰囲気が。 もう、尋常ではない。 どう考えても、この電話の相手は、たかが殺し屋一人に対して、直々に電話をかけてくるような相手ではなかった。 そんな相手が、前触れもなく、言葉を紡ぐ。 『先日、“ウチの”が攫われた。そちらの騒動に、“アレ”を巻き込むとは、…さて』 淡々とした声に、感情はうかがえなかった。それでも、分かる。 この怪物は、激怒している。 『どのような誠意を見せてくれるのかね、野良犬』 「…あはっ」 心臓を直に握られたような息詰まる感覚を覚えながら、恭也は唇に笑みを浮かべた。 死にも似た感覚に、陶然と。 「誠意は見せるよ。でもアンタには関係ないかな」 血の気が下がる。 恭也は、悪ぶった口調で言いながら、自身の手が震えているのを見下ろした。 恐怖している。 この、死神が。 ―――――恐怖だって? ああ、わくわくする。 恐怖という感覚が、がこれほど心地よく、楽しいものとは思いもしなかった。 雪虎と相対するときのような、息苦しいような切なさは、格別のもので、それとは何も比べようもないけれど。 絶対、敵わない強者と相対した時の、命を削るような感覚は。 根っからの戦士と言える恭也にとっては、また、必要な刺激だった。 「トラさんには協力もしてもらった。おかげでコトは早く済みそうだし。そうだね、お礼として」 そう、雪虎に会ったのだ。 なら、やることはいつもと変わらない。 「一晩中、ぼくを可愛がってもらう。ぼくはいっさい抵抗しない。きっとトラさんは許してくれる」 言いながら、陶然となった。 いつもなら。性急に事を済ませる。 オスとしての衝動もあって、恭也が雪虎に手を出しそうで危ないからだ。 もし。 本当に雪虎を組み敷いてしまったら。 手放せなくなるのは当たり前で。…それ以前に。 今まで身体をつなげた相手の成れの果てが、恭也の脳裏をよぎった。 抱いてしまっても、雪虎は、果たして。 生きて、いるだろうか。 が、今回は。 昼間のふれあいのおかげで。 恭也のオスの部分が、いくらか満足していた。 これからこの階で起こることでも、狩猟の欲求を満たしてくれるだろう。 だとすれば、残る、疼きは。 ―――――体奥。 一から可愛がってもらおう。撫でてもらおう。 うっとりと、言うなり。 『―――――図に乗るなよ、野良犬』 ぞわ、と全身が総毛立つ声がスマホの向こうから聴こえた。 声は変わらず、淡々としている。おそらく、表情も変わっていないだろう。 だが、きっと、この男は。 (目だけ変わるタイプだよね?) 感情が希薄そうな声の後ろで、空気から滲みだす、憎悪とも殺意とも取れる、これは。 知らず、恭也は笑んでいた。 ああ、たのしい。 「ふふ、本性が出たねえ、陰険野郎…それ、嫉妬?」 煽ってみたが、返されたのは沈黙だ。 しかしそれこそ、危険な兆候だと恭也の本能が警鐘を鳴らす。 「わかったよ」 退く時だ。 恭也は肩を竦めた。 「あとで必ず、トラさんを攫うことを決めたヤツの情報を送るから。それで勘弁してくれない?」 『…貴様がアレに関わらなければ済む話…なにをしている』 不意に、電話向こうの相手の雰囲気が変わった。 最後の言葉は、恭也に向けてのものではない。 『切る。せめて無事に帰せ。お使いくらいはできるな?』 言いたいだけ言って、通話が切れる。 「…ふうん?」 スマホを見つめ、恭也は首を傾げた。 今、数秒対話した相手が、簡単に動揺など見せる人物とは決して思えない。 なのに、束の間余裕をなくしたようなのが不思議だ。 何があったか、興味が湧いたが。 未練なく、恭也はスマホの電源を切った。 なにやら、馴染みの騒ぎが耳に届いたからだ。 口元に、両端のつり上がった三日月の笑みを浮かべ、うっそりと立ち上がる。 「さあて」 スマホを床に投げ捨て、夕暮れの赤い光の中、一歩踏み出す。 「狩りの時間だ」

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