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日誌・66 おとしもの

ふと考えごとに沈みかけた刹那。 華やかな格好をした娘が、ふいっと雪虎たちの近くを通り過ぎた。 少し、危うい足取り。酒が入っているのだろう。 その、白く細い指に引っかけられただけの、小さなバッグが。 手押し車に積んだ、ビニールの一つを掠めた。拍子に。 バッグの金具が、わずかに側面をひっかき、穴を開けた。 真っ先に気付いた浩介が、そこを手でふさぐ。だが、わずかに遅い。そこから、ぽろりと何かが落ちた。 「あ」 声を上げたのは真也だ。悪いことに、それが周囲にいた何人かの気を引いた。 ロビーの床の上、軽い音を立てて落ちたそれは、―――――真珠のイヤリング。 おそらく、…件の女性の、遺留品だ。 つまりは、悪いことに、破けたのは警察に渡す予定の諸々が入った袋だったらしい。 雪虎はポケットに手を突っ込んだ。 幸い、軍手がすぐ指先に触れる。さっと装着、拾い上げるなり、 「キミ」 すぐそばにいた、身なりのいい壮年の男が声をかけてきた。 「それをどこで拾った」 帽子を被りなおしながら、雪虎は彼に目を向ける。 こちらに向けられているのは、厳しい視線だ。まるで、盗人にでも向けるような。 その隣には、先ほど、袋を破いた娘がいて、 「どうしたの、パパ」 不思議そうに言いながら振り向いた。父娘か。 イヤリングを見るなり、彼女の目が驚いたように瞬きした。 「それ、ママのじゃない?」 雪虎は、一瞬で状況を察した。 ―――――嫌な疑いがかけられたようだ。 これでは、イヤリングを袋の中へ無造作に放り込むわけにもいかない。 周囲に薄い緊張が走り、いくつもの視線が交錯する。雪虎たち三人も視線を見交わした。ただ。 自殺者の部屋から出たものだとは、言えない。第一、守秘義務があった。この場で、上階の一室で何があったかなど言えるはずもない。 フロントで、ホテルの上役らしい人間がちらちらと視線を送ってきている。 そこへ。 「…あら? 二人とも、どうしたの」 少し、おっとりとした女性の声が割って入った。父娘が揃ってそちらを見るなり、 「ママ」 「お前」 と、声をかけたからには、現れた美人は、妻であり、母なのだろう。 一見、これほど大きな娘がいる女性には見えない。そして、その両耳には。 ―――――なるほど、雪虎が今手にしているものと同じデザインのイヤリングが揺れている。 ただ、その女性には。 実は、雪虎たちの方に見覚えがあった。 雪虎は浩介と真也に目配せする。すぐ、二人は頷いた。 どうも状況は、当初とは別な方向に厄介な状態を見せ始めている。 ちら、と父娘の方を見遣れば。 娘の方は「なあんだ」といった表情だ。というのに。 さらに、顔色を変えたのは、父親。 「キミ、…そ、れを、本当に、どこで」 その反応に、おや、と思う。 冷静を装うつもりでいるのは見て取れたが、父親の方がかなり動揺している。 それも、悪い方向へ追い詰められている様子があった。目が血走っている。 (…まさか) この男の妻と同じイヤリングをした、自殺した女性というのは、…もしかすると。 ――――嫌な構図が、雪虎の脳裏に浮かんだ。 雪虎でさえそうなのだ。 もとより勘がいい浩介や真也など、言わずもがなだろう。 浩介はふてぶてしいほど自然体で構えているが、基本が臆病な真也など、既に小さくなってしまっている。 これはまずい。 坊ちゃん育ちでいくばくかの権力を持った人間というのは、加減知らずな方法を取る場合がある。 怯える相手を前にすれば、そういう相手はさらに図に乗るのだ。 まずは。 近づいてくる奥方の目からイヤリングを隠すように、雪虎はそれを掌に握りこんだ。 おそらく、彼女こそが一番、コレを見せてはいけない相手だ。 「これは掃除の最中に拾ったので、ホテル側に預けようかと」 ぼそぼそと答え、袋の破れ目を押さえたままの浩介に問題の品をバトンタッチ。 一見、穏やかでのんびりしているように見えて、浩介は器用だ。 イヤリングを受け取った手を一度握りこんだ後、何食わぬ顔でひょいと上向けられた掌には何も乗っていなかった。 それを一瞥した父親は、 「ホテルの、どこだ」 幾分、やわらいだ声で尋ねてくる。 「え、ええと」 威圧に小さくなった真也が、あわあわと奥方に目をやった。 ―――――そう、実は近づいてくる母親は、先ほど、三人と同じ階にいたのだ。しかも。 (一人じゃ、なかった) だが今、ロビーへは一人で降りて来た。 一緒にいた相手とはその場で別れたのか、それとも。 対応を考えながら頭の余所でそんなことを考えていると、 「あ」 何に気付いたのか、母親の背後に輝く目を向け、弾む声で娘が手を挙げた。 「こっちよ!」 開いたばかりのエレベーターの扉から現れたのは、やさしげな顔立ちの、若い男。優しげと言えば聞こえはいいが、気弱で頼りない感じがする。 別の言い方をすれば、何でもワガママを聞いてくれそうな感じ。 困ったような笑いを顔に張り付かせ、小走りにやってくる男に、娘は頬を膨らませた。 「どこ行ってたのよ、婚約者を放っておいて」 彼女の一言に。 雪虎の顔に、一度、猛烈な呆れが浮かぶ。 実は先ほど、上階で彼女の母親が一緒にいた相手というのは、…あの男だ。 しかも雰囲気から、義理の母と息子になろうというような関係には見えなかった。―――――もっと、濃密な雰囲気が。 (…まさか) 雪虎の脳裏をよぎったのは、ろくな思考ではないから、間違っていてほしいと思う。 おそらく、娘の両親は双方、浮気をしている。 父親の不倫相手は本日自殺をした女性。 ―――――計算づくでここまで来たはいいものの、きっと、当てつけのような衝動でこんな結果になったのではないだろうか。 そして、母親の不倫相手は―――――娘の婚約者。 …これほどばらばらな気持ちでいても、家族という付き合いが良く続けられるのだなと感心してしまう。 雪虎は横目で浩介を見遣った。後輩は、しれっとした横顔を見せている。 が、今雪虎が考えたのと同じような内情を察したに違いない。 …こうなったなら、仕方がない。 簡単に逃がしてくれそうにないのなら、 「ホテルのどこで、とお聞きになられましたね。それでしたら」 この状況、ちょっと利用してしまおう。 素直にすべて、話すわけにはいかない。 だから、相手がこちらを気にすることができない程度に、引っ掻き回して意識を逸らしてしまうのが一番だ。 雪虎は浩介の腕を軽く叩く。浩介が雪虎を見た。ひとつ頷き、微かに唇を動かしてみせる。 ―――――帰れ。 これから隙を作るから、お前たちは先に帰れ、と雪虎は浩介に暗に告げた。浩介なら、理解したはず。 それきり、雪虎は意識を父親の方へ向けた。どうせ、真実はいつか知れる。 近寄ってくる娘の婚約者を親指で指さし、雪虎は言った。 「あの方に聞いてください。先ほど、同じ階におられましたから」 「同じ階?」 先ほどの、娘の声にも気付いていなかったのか、振り向いた父親は娘の婚約者がやってくるのに今気づいたと言った態度で、目を瞬かせる。 「少し酔ったから、外に出てくると言っていなかったか」 「そうでしたか。では、奥方が介抱して差し上げていたんですね。一緒に同じ階にいらっしゃったので」 何食わぬ顔で雪虎が言えば、娘の目が鋭くなった。 「え? ママは人に酔って気分が悪くなったからって、上に取った部屋で休むって言ってたけど…そうよね?」 返す視線で母親に強い一瞥を向ける。そこに、もう酔いの気配はない。 母親は足を止めた。 動揺と言えばそれだけで、にこりと平常心で微笑んだのは、大したもの。 「わたしは部屋の中にいましたが…人違いでは?」

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