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日誌・65 無効化

× × × 「旅行者だって?」 ばたん。 細かい道具の入ったプラスチックの箱を閉じ、雪虎はよっこらしょと立ち上がった。 ここは、ホテルの一室だ。 「らしいですよ。しかも妙齢の女性の一人旅」 ビニール手袋を外し、ゴミをまとめた袋に入れながら、浩介。癖のように胸元の煙草を探る。 だが指先に触れた瞬間、仕事中と思い出したように手を離した。 「チェックインは昼だったんですよね。それから一歩も外に出てない」 言いつつ、真也がシャワー室の扉を閉め、中から出てくる。 今は日も落ち、午後十時を回った時刻だ。 「そんな時間に、旅行者が? …早くないか」 呟き、真也が後にしたシャワー室を見遣る雪虎。 ここは、地元でも有名な大きなホテルだ。 都会のホテルにはかなわないが、著名人が会合などによく使うと聞く。 地元で行われる大会において、アスリートなどの宿泊所に選ばれやすい。 今日も今日とて、フロアを貸し切ったパーティらしきものが、いくつか開催されていた。 「衝動的な行動というより、計算している気がしますね。それとも、両方でしょうか」 浩介が、飄々と肩を竦めた。清掃道具をまとめて抱えながら、うんうん、と真也が大きく頷く。 「はなからココに決めてきたって感じですよねぇ?」 他人事然とした平気な態度で、三人揃ってシャワー室を見遣った。 何の話をしているのかというと。 実は、―――――ここで自殺者が出たのだ。 見つかったのは、まだ明るい夕方頃だったようだ。 警察とはどのような話がついたのか。いや、おそらく、ホテルの関係者の中に警察と親密な関係にあるものがいるのだろうが。 宿泊客の中で自殺者が出たという外聞の悪さを気にしたか、信じられないようなスピードでことは処理され、餅は餅屋とでも言いたげに、最後の清掃の仕事がアマクサに回ってきたわけだ。 わざわざアマクサを呼び入れたということは、アマクサが裏で請け負う仕事のことを知っているものが関係者の中にいるというわけで。 なぜ、アマクサのことを知っていると推察するのかというと。 なにせ本来なら、秘密を知るものは少ない方がいいはずだから、内々でコトを済ませるはずである。 それが、わざわざアマクサを呼んだのだ。アマクサの裏の仕事を知っていなければ、そんなことにはならないはず。 キナ臭いが、深入りは無用。雪虎たちは仕事をするだけである。 部屋を出る前に振り向けば、いつだれが泊まっても大丈夫な状態で室内はうつくしく保たれていた。問題はない。何も知らなければ。 完了報告は事務所に来ずに、電話で済ませてほしいという依頼があった。 会社用のスマホで連絡を入れ、雪虎は手持無沙汰に待っていた二人に声をかける。 「帰るか」 ようやく解放される、と言った風に、真也が明るい声を上げた。 「お疲れ様で~す」 「まだ早い」 その頭を後ろから浩介が軽く叩く。 がらがらと手押し車を押し、階の奥にある業務用エレベーターに向かった。 普通の宿泊客もいるのだ。既に眠っている客もいるだろう。それでも、幾人かとすれ違う。 廊下は無言で進み、業務用のエレベーターに乗り込んだ。扉が閉まったところで、浩介が口を開く。 「先輩は、朝、県外から戻ってきたところなんですよね。お疲れ様です」 「そう言えば昨日、トラさんお休みでしたよね。どこ行ってたんですか」 真也がのんびり尋ねてくるのに、浩介が冷静に返した。 「ばか、仕事だ」 「え、一人で出張だったんですか?」 びっくり眼で、真也が雪虎の顔を覗き込んでくる。 ああ、出張。言われて、気付く。 もしかして、会社はそういうつもりでいるのかもしれない。表向きは確かに、そのようにしておいた方が問題ないだろう。 「…まあ、そんなもんだ。だから、今日は昼出にしてもらった。寝不足で失敗なんて目も当てられないからな」 言葉を濁し、真也を追い払うようにしたあと、雪虎は別れ際に黒百合から言われたことを思い出す。 話に上がったのは、雪虎と恭也が一緒にいると、恭也の体質が無効化される件についてだ。 だが、以前。 真也が迎えに来たあの時、真也の身に起きたことは、ただの偶然とは思えない。重ねてそれを繰り返せば、 ―――――理由なら、何となく想像がつきます。 疲れて、雪虎の膝で寝入った恭也をミラー越しに一瞥し、黒百合は答えた。 ―――――それこそ、お二人の気持ちの問題ではないでしょうか。 ―――――気持ち? ―――――恭也さまはお迎えの方に苛立っていました。それにきっと、トラさんは。 運転に意識を戻し、黒百合は淡々と告げる。 ―――――その、お迎えの方を気にしていた。―――――そういう、ことでは。 (…まあ、なんだ) 互いの体質を無効化する場合には、恭也と雪虎の気持ちが互いに向いている必要があるとか、そういう話なのだろうか。 その上で、黒百合は信じられないことも口にした。 ―――――ちなみに、お二人が一緒にいれば、雪虎さんの体質も無効化されているようです。 即座には信じられない言葉、…だが、思い当たる節はある。 確かに、そういう感じはあった。 明るい中で恭也と共に行動する機会など、今までなかったわけだが。 昨日一緒に歩いていると、不自然に目を逸らす相手は一人もいなかった。むしろ、まじまじと見つめられる回数が多かった気がする。 避けられないのはありがたい。が、見つめられるのも、素直に喜べなかった。なにせ。 その顔がすぐ、嫌悪に満ちた表情を浮かべることを、雪虎は知っているし、それに慣れすぎていた。 思う間にも、エレベーターが一階で停止。一階の奥で扉が開いた。 ホテル裏の駐車場へは、ロビー近くを横切る必要がある。 折悪しく、上階から華やかな格好をした客たちがぞろぞろと降りてきていた。早く帰ればいいのに、彼らは笑いさざめきながら、世間話に興じている。 世の成功者たち。 なんにせよ、こう言った連中ならば、雪虎たちなど気にも留めないでいてくれるだろう。絵画の背景と同じだ。 「…とっとと帰るぞ」 雪虎は帽子を深くかぶりなおしながら足早に進んだ。 「はぁい。一回、会社に寄らないとですね」 後ろに続いた真也があくび交じりに言う。 「ああ、…いや」 頷きかけ、雪虎は嘆息。 「悪い、俺はここで別れる。―――――寄らなきゃいけないところがあってな」 言って、腕時計を見下ろした。 地元へ戻ってからまだ、月杜家へ顔を出していない。 時間が時間だから悩むが、先延ばしにもしかねた。 (まずは電話をかけて…)

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