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日誌・71 月杜の役目
秀は大きい。すべてが。間近で見上げれば、戦車でも見上げている心地になる。
本気で殴られたら、骨が砕けるかもしれない。腹に来れば、おそらく内臓破裂。
いっそそうしてくれた方が、雪虎としては気が楽だ。
秀と向き合うとき、彼に許され続けることは、逆に―――――罪悪感を加速させるから。
断罪を待つ気分で秀を見上げれば。
「…できる、はずが、…ないだろう」
秀は、古傷でも痛むような表情を見せた。
力なく、雪虎から手を離す。
拍子に、けほ、と雪虎が軽く咳込んだ。
とたん、びくりと秀の身が揺れる。咄嗟に、その手がのばされた。雪虎の顔へ。だが途中で、何かを耐えるように握りこまれる。
足元に放り出された二つのランタンの明かりが、闇の中、二人の表情を薄く照らし出した。
秀の傷ついたような顔に、雪虎は根性で、それ以上の咳込みを堪える。
…秀が。
何か、腹立たしく感じているのは確かだ。だが、この態度。
数時間前の、ホテルでのことが原因ではない気がした。
ならば何がダメだったのか。
「どうしてです?」
掠れた声で、それでも険の増した態度で雪虎は秀を睨んだ。
「どうせ今回も、俺が何か悪かったんでしょう」
何か、良くないことが起きれば、昔から月杜では、大体が雪虎のせいになる。
「俺は頭が悪いんです」
身に覚えがないことでも、言い訳は諦めた。
そんなことをすれば、最初よりひどい対応が待っていたからだ。
祖母の元にいた時は、そんなことはいっさいなかったが、身についた癖や習慣は、なかなか消えない。その内。
最初から疑われるのなら、いっそ本当に『そう』なってしまおうと考え、…実行した。
拗ねた子供の考えだ。分かっている。そのせいか、
「はっきり言ってくれないと、分かりません。言えないなら、殴って罰すればいい」
殴られた方が分かりやすい。というか、暴力が生じれば、そこで話を終わらせられる。
苛立ち、踏み込むように身を乗り出せば、秀は眉をひそめた。
「なぜ罰と言えば、暴力になる?」
刹那、―――――雪虎の脳裏をよぎったのは、幼い頃の記憶。
罰と言えば、それしか知らなかった頃の。
もっと言えば、罰を受けるためだけに存在していた頃の。
いっきに、気分が悪くなった。…察するものが、あったからだ。
息が浅くなる。
意識してゆっくり、深く、息を吸い込んだ。
でないと、息が止まりそうだった。
…ああ、もう。情けない。悔しい。そうか。…そうか。なんてことだろう。
雪虎の言動はまだ、あの頃に支配されているのか。
「…暴力で、解決しようとするのではなく」
秀の声が、なぜだろう、懇願する響きを帯びた。
「まずは、理解しようと、…努めてほしい」
雪虎は奥歯を食いしばる。
…誰と縁を切ったところで、自分自身とは縁を切れない。
その自分自身が何かに捕らわれていれば、どのように変わろうと思っても、自由でいたいと思っても、…不可能だ。
雪虎の場合、それは。
―――――暴力からの解放。
暴力以外に、心底納得のいく解決方法を見つけられる人間にならなければ、雪虎は決して過去から解放されない。自由になれない。
暴力に親しむことで安心するようでは、…まだまだだ。
このとき、雪虎は、自身がどんな表情を晒したのかは分からない。
ただ、どうにか意識して、大きく息を吐きだした。
…仕方がない。秀に従うようなのは業腹だが、納得してしまった以上、努力はしよう。
「なら。会長は、なんで怒っていたんですか」
「嫉妬だ」
―――――相変わらず、秀の言葉は端的だ。だが、短すぎて理解できない。早々に白旗を上げる。
「…もう少し詳しく」
眉間にしわを寄せた雪虎に、秀は首を横に振った。
「分からないならいい」
っだから、理解しようとしているんですが? 理解しろと言ったり、しなくていいと言ったり…なんなんだ。
秀は穏やかに言う。
「私はいいのだ」
秀自身がどう納得していようと、雪虎にとっては、良くないのだが。
どんな言葉で雪虎の気持ちを伝えればいいのか、悩んでいると、
「ただ、月杜の意味であるお前のために、月杜の役目を果たすまで」
今までで、一番、妙な台詞を秀は口にした。
―――――は?
雪虎は顔をしかめる。
「なんです、それ」
『役目』だって? つい聞き咎めてしまった。しかも、雪虎が、…なんだって?
尋ねたのは雪虎なのに、逆に秀の方が淡々と尋ねてくる。
「父から、聞いていないか」
「先代? いや何も…というか、何を」
言いさし、雪虎は記憶の縁から蘇った言葉を拾い上げ、途中で言葉を止めた。
そうだ、今、秀は、月杜の意味、と言ったか。
「月杜の意味って」
いつだったか、自身の醜さに落ち込む小さな頃の雪虎に、さやかが言った。慰めるように。
―――――トラちゃんには何の責任もない。これは、月杜が受けた祟りなのよ。
「もしかして、…姫さんが言ってた、月杜家の伝承のことですか?」
かつて、さやかは物語った。
大地を襲った災禍を一身に引き受け、醜い姿に変わった、…誰からも愛されていたはずの娘の物語、その末路まで。
彼女こそ、月杜家の祖の一人。
開祖たる鬼の伴侶。
祖である彼女と同じ祟りをその身に宿す存在が、時に月杜家の家系の中に出現するという。
それこそ、雪虎なのだ、とさやかは胸を張った。
―――――トラちゃんはね、月杜家が代々、守らなくてはならない存在なの。
まだ子供の舌足らずなさやかの声が、記憶のふちから、脳裏に響く。
幼い少女は夢見がちだ。そう思って、かつての雪虎は聞き流していた。
昔話は昔話だ。
今を生きている雪虎には関係がない。きっぱりと、自分とは切り離していた。
なにより、雪虎は月杜家の傍系の傍系だ。
月杜家に伝わる伝承などと言った、中心的存在に関わっているはずがない。
そう、考えて、いたのに。
まさか、…アレには本当に、雪虎にまつわるものなのだろうか。
果たして、秀は呟いた。
「水川か。そうか、父はトラの妹分に語り部の役を振ったのだな」
すぅっと、雪虎の頭に昇っていた血が下がる。
「トラの、その、体質は」
秀は淡々と続けた。
「月杜の祟りだ」
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