71 / 197

日誌・70 暴力の気配

「みっともないついでに、もう少し聞いておきたいことがある」 秀の言葉に、雪虎は唖然。 お互いにみっともない自覚をしながら、会話を続けるとはどういう拷問だ。 雪虎の態度に何を思ったか、秀はわずかに顎を引いた。 格子の向こうに立ち、身長差をものともせず、上目遣いになる。 「…だめか」 (おいおいおい) 秀の姿に、しょんぼりした大型犬が重なった。 くそう、ずるい。 (なんだろう、この状況) 雪虎は、ものすごく居たたまれない。 秀の方が、立場が上なのだから、もっと強引にコトを進めればいいのに。 居心地の悪さを感じながら、雪虎は渋々頷いた。 「聞きますよ」 律儀に許しを待って、秀は口を開く。 「トラが親と縁を切ったことは知っている」 いきなり、また直球だった。 まさか真正面から切り出される話と思っていなかった雪虎は、表情を取り繕うこともできず、目を瞠る。 秀の言葉は淡々と続く。 「即ち、月杜家と縁を切った、そういうつもりで、いるのだろう」 秀のことだ。 雪虎の行動を聞き知った時点で、雪虎の思惑など察していただろう。 説教がくる。 そう思った雪虎は、咄嗟に身構えたが。 「責めているのではない。月杜家とのかかわりが重荷なら、月杜や…、私を忘れてくれても構わない。私も会わないように努力しよう」 秀の言葉は思いがけない―――――譲歩。 肩透かしを食った気分で、どういうつもりかと雪虎は秀を見上げた。秀らしくないのではないか。 …いや、雪虎に関して、彼がいつからかひどく甘くなったのも、また事実だ。 「ただ」 言いにくいように、珍しいほど小さな声で秀は続けた。 「いざというときは、こちら側の助力を拒まないでほしい」 口調がいつもとまるで同じだから、何を言われているのかすぐには理解できなかった。 すぐ、雪虎は首を傾げる。 言われた言葉を理解はした、したが…、これは何かおかしくないだろうか。 この世のどこに、助力することを許してくれ、と請う人間がいるのだろうか。 これではまるで、性悪女に騙された世間知らずの坊ちゃんだ。 この場合、性悪女が雪虎という構図になる。 もちろん、雪虎は、邪魔者は徹底的に踏み潰してすり潰すことにためらいはない。 が、性悪女と言えば、獲物に寄生して徐々に生命力を吸い上げ弱らせると言ったイメージだ。 雪虎が悪者になるのは構わないが、性悪女呼ばわりは少し違う気がした。 いや、動揺したせいか、思考がわき道に逸れている。 それはともかく。 秀の態度や言葉から察せられるのは、…遠慮だ。雪虎に対する。 ―――――雪虎は、そこまで尊重されるような立場ではない。むしろ、秀の方が立場は上のはず。 数多の選択肢を選ぶ権利を持っているのは、秀だ。雪虎ではない。 「助力なんていりません。俺がどうなろうと、それは俺の自業自得ですから」 「そうか」 納得したのかしていないのか、秀は表情なく頷いた。 「…それからもうひとつ」 そもそも、雪虎と秀は、努力せずとも会わないでいることが簡単な間柄だ。今ここで顔を合わせていること自体、偶然の域を出ない。 それに。 秀はひとつ、思い違いをしている。 「そりゃ、俺は会長が苦手だし、嫌いですよ」 この際だ、包み隠さず、雪虎は言い切った。 大人になれば正直なところは言いにくいが、今だけならば、別にいいだろう。 ただ、雪虎が秀に対して抱える苦手意識は、多くのところ、劣等感の裏返しだ。 認めているからこそ。 完全に負けていると思うからこそ。 秀が、苦手なのだ。 とはいえ。 「…でも積極的に忘れたいと思ったことはありません」 当然、秀との間に起きたことは忘れたい。 けれど、不思議と。 本人を忘れたいと思ったことはなかった。 秀がどうかは知らないが。 「…」 雪虎の言葉を、秀がどうとらえたかは、分からない。 一拍、沈黙を挟んで。 「中に、入ってもいいかね」 また、わけが分からないことを言い出した。 それは、いちいち、雪虎の許可を取ることだろうか。 月杜家の主は秀だ。この蔵の正統な持ち主が、血の薄い遠縁の男に、何の許可を求めているのか。 雪虎は一瞬、遠い目になる。観念したように、一度、瞑目。 達観した視線を秀に向け、一言。 「決めるのは会長です。俺じゃない」 きっぱり言って、雪虎は出入り口に向かった。 だいたい、これ以上、ここにいる理由はない。 これからの行動で正しい選択は、この場所から出ることだ。中に入るのは間違っている。 ただ、この中はゆっくり過ごすことに適していた。 あのように雑然とした蔵の中で忙しなく調べ物をするより、ここでじっくり腰を据えて調べ物をしたいというなら、納得がいく。 だから秀は、中へ入りたいのだろう。ただ、雪虎の用事は済んだ。 「調べ物の続きをするなら、会長はどうぞ。俺は出ていきますから」 秀は、いっとき、逡巡。その態度に、雪虎はどうぞ、と身振りで促した。 秀は小さく息を吐く。大きな身体を屈め、すぐ、中に入ってきた。 その姿を見ながら、落ち着かない気分だった雪虎は、つい、どうでもいいことを口にした。 「もう、怒ってはいないんですね」 間違いなく、秀は先ほど、怒りを抱いていたはずだ。だが今、そんな気配はない。 そもそも、何に対して怒っていたのだろうか。思う端から、答えが浮かぶ。 (ああ、ホテルでの俺の対応がいけなかったのか) ああいったやり方を、秀は嫌う。勝手に結論するなり。 ―――――ガッ! 雪虎は背中を、座敷牢の格子に打ち付けていた。 背骨を打って、一瞬、息が詰まる。 胸を圧迫した腕に、肺から空気が強制的に押し出され、かは、と呼気が漏れた。 暴力の気配に、しかし雪虎はいっきに息が楽になる。 優しく甘い場所からは、むしろ逃げ出したくなるのだ。この方が、平静でいられる。 きれいすぎる空気の中だと、きっと雪虎は死んでしまうだろう。 それにしても、秀ときたら。 (的確に意識を刈りに来たな) 雪虎に、挑発のつもりはなかった。 が、秀は、そうされたようなものだろう。 だから、さっきのは、咄嗟の動きだったはずだ。 なのに、秀は正確に首を圧迫し、真っ直ぐターゲットである雪虎の意識を奪う動きを見せた。 間一髪、雪虎が腕を押しやり、わずかに場所をずらすことで、それはかなわなかったが、即ち秀は、一瞬で身体がそう動くように出来上がっている。 おそらくは月杜の教育が実践に主体を置いているからだろう。 もしかすると、寸前で、雪虎と目が合ったから、極めることを躊躇ったのかもしれないが。 そうだ、猛獣相手に、目を逸らしてはいけない。 「あんたに」 襟を掴み、首を圧迫する形で押し付けられた秀の腕。 そこから、次第に力が抜けていく。 それを感じながら、雪虎は秀の拳を見下ろした。挑む目で。 「殴られたら痛いでしょうね」

ともだちにシェアしよう!