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日誌・69 座敷牢
こういった、中途半端な関わり合いこそが、じわじわ首を絞めてくるようだと感じる。
喉をさすり、意識して思考を止めた。
もともと明るい性格でもない雪虎は、沈み始めると際限がない。
思考を切り替えるべく、緩く頭を振る。
視線を、一階の奥の闇に真っ直ぐ固定。そちらへ足を向けた。
通り過ぎる際に、ちらり、階段を一瞥。調べ物があると言っていたとはいえ、秀がいつ降りてくるか分からない。
確認したいことが雪虎にあるなら、早々に動くべきだ。
…それにしても、整然としているようで、モノが多い。
大股に突き進むわけにもいかず、ランタンで周囲を照らしながら、モノの間をすり抜けていく。
見覚えのあるものが多く、何度も、足を止めたい誘惑にかられた。
(あ、梟のこの剥製、蔵に移動してたんだな)
これは昔、玄関にあったもの。
あれは、床の間にあった壺。
無造作にかけられている掛け軸はある人間国宝の作とか聞かされたことがある。
懐かしいものに意識を引き留められながら、心を無にして、雪虎はどんどん奥へ進んだ。
きちんと棚に納まった古書や巻物も多い。
これは、昔の、記憶通りだ。
上品そうな木の箱に納まっているのは着物だろう。
それにしたって、どれもこれも。
(扱いの難しそうなやつばっかだ…)
いや、剥製や着物などといったシロモノは、問題があれば基本的には専門家に任せるだろう。
秀が雪虎に依頼したいのは、単純に整理整頓ではないのか。
―――――このありさまは、なかなかひどい。
つい、真剣に悩みだした雪虎は、脚が止まりそうになるたび、我に返る。
のろのろした足取りながら、ようやく、一階の最奥にたどり着いた。
(ええと…そう確か、この、あたりに)
屈みこむ。
床の上を、つ、と指先で探る。と、すぐに取っ手の感触。
撫でるように近くを探れば、さらにもうひとつ。
重く冷たい鉄輪の感触。それがふたつ。
雪虎はそれぞれを手で掴み、音をたてないようにゆっくり引っ張った。
というか、ゆっくりと、以外にはできない。重かった。ひたすら。
かなり力はいったが、どうにか、雪虎一人でも持ち上げられた。
いっとき、息を詰めていた雪虎は、ある程度まで持ち上げたところで、大きく息を吐きだす。
(ここ、鍵はついてないんだよな。昔から)
重要なのか、そうでないのか、月杜の屋敷には、よく分からない場所が多い。
雪虎は持ち上げた床板の先を覗き込んだ。ランタンの明かりで照らせば、地下へ続く階段が見える。
まだ、記憶の通りに階段があることを確認し、雪虎は床板をもう少し持ち上げた。
勝手に閉まらない位置に落ち着かせる。そのうえで、雪虎は足早にその階段を降りた。
やがて、ランタンの明かりの先に見えてきたのは。
広く立派な―――――座敷牢だ。
木の格子越しに、雪虎は無言でランタンの明かりを掲げた。
中に誰かがいる反応はなく、雪虎からも見えない。
ホッと息を吐く。
(情報屋はいない、な)
ここにはいなかった、と分かればそれはそれでいいのだ。ひとつ、安心した。
念のため、雪虎は腰をかがめて入らなければならないちいさな出入り口から中に入った。
(昔は、ここにも錠前がついてたんだけどな)
ただ、子供の頃は、意味も分からず面白がって出入りしていた雪虎たちを制止もしかねた先代が、出入り口を開けたままにしておいてくれた。
ここは、夏場は非常に涼しく、外を駆け回って遊んだ後、日焼けした身体で畳の上に心地よく寝そべっていたものだ。
なんとなく、ここがどういう用途の場所であるのか察した後は、疎遠になったが。
牢の中へ足を踏み入れたのは、懐かしさもあったからかもしれない。
出入り口を開けたまま、周囲を見渡しながら中へ。
地下にあるのだ、元から暗いが、昼間は天井にある窓から明かりが差し込むようになっている。もちろん、直接太陽の光が当たらないように、窓には計算した傾斜がつけられていた。
情報屋の翔平の行方が気になった時、ふと、この場所を雪虎は思い出したのだ。
とたん、不吉な予感が湧いた。
翔平はここに閉じ込められているかもしれない、と。
足元から立ち上る、真新しいイグサの香りに、最近畳を変えたのだろうかと他人事のように思いつつ、ボヤくように呟いた。
「…思い違いだな」
月杜の者であるなら、絶対に、この場所へ他者を入れることはない。ましてや、情報屋など。
ここに来ることで確信を深めた雪虎の呟きに、
「何がだ」
反応するものがいた。
「いや、ここに情報屋がいると思ったんだけ、ど…」
背後からの問いかけに、雪虎は自然に答えかける。途中で、勢いよく振り向いた。
牢の外で、ランタンを掲げ、立っていた人影に、ごくりと息を呑む。
「…かい、ちょう」
壊れた人形のように呟く雪虎の脳裏で、ぐるぐると思考が渦を巻いた。
調べ物はどうしたんだ。
なぜ、こんな最悪のタイミングでここに。
もしかして、雪虎がこうして動くのを、秀は待っていたのか。
「舟木を捜しているのか」
確信を持った、秀のその一言で、雪虎は察した。
秀は最初から、雪虎の行動を読んでいたのだ。ではなぜ、ここまで来させたのか。
…いや、それこそ、愚問だ。基本的に、秀は雪虎の思うようにさせようとする節があった。今回も、それで。
今ここにいるのは、おそらく。
お迎え、のつもりなのだ。もう気が済んだだろう、帰ろう、と。
冒険に夢中になって、帰り路を忘れてしまった子供を迎えに来る親のように。
「生憎だが、あのような者は、ここどころか、蔵へ通すことも許可できん」
その通りだ。
この場合、すぐにそこまで思い至れなかった雪虎が、バカなのだ。
この牢はおそらく。
―――――貴人にあてがわれる場所だ。
貴人。即ち、月杜家が、優先する存在。
一族の者か、長い交流のある信頼のおける家系の者。
尊ぶべきだが、閉じ込めざるを得ない相手が、過去、ここに入ることになったのだろう。
一瞬、どう言い逃れしようか、とも思ったが。
「勝手に入って、すみません」
雪虎は、真っ向から謝罪した。秀相手には、これが一番だ。
ただ、ひねた気分が、言わなくていいことを雪虎に言わせた。
「いい加減、愛想が尽きたでしょう?」
雪虎は決して、イイ子にはなれない。
善人ではない。
「俺が嫌なら嫌で、縁を切ってくれたらいい。月杜の責任なんてもので、会長の感情を殺す必要はないですよ」
雪虎は、いい加減、この、間合いを慎重に測らなければならない状態が、苛立たしかった。
できるなら、きっぱり清算したいと思う。
秀の真意を探るのに疲れて、勝負に出たわけだ。単純に、短気を起こしたとも言える。
「昔から」
これと言った動揺もなく、秀は言った。
「嫌がっているのはお前の方だろう、トラ」
…ん?
雪虎は、目を瞬かせた。
…どういう状況だろうか、これは。
決定権を投げたつもりが、投げ返された、そんな気がする。何が起こった。雪虎に、そんな権利などないだろう?
やはり、秀の心づもりが分からない。胡乱な表情で、雪虎は言った。
「いや、昔を言うなら、子供の頃、会長は確実に俺を嫌ってましたよね」
いちいち掘り返すのは滑稽だから言わなかったが、幼い頃の秀は、雪虎を嫌っていた。理解しないでいる方が難しいほど、あからさまに。だが。
途中から、変わった。真っ直ぐ、雪虎を見るようになった。…何が理由かは知らない。
秀は静かにゆっくりと告げた。
「今は違う」
彼らしく、言い訳などはしない。
子供の頃、秀は雪虎を嫌っていたことを、言外に認めている。その上で。
(…)
一応、今は、嫌ってはいない、少なくとも、身内としては大切にされている、そういう、ことだろう。
面と向かって言われることで、少し落ち着かなくなる。居心地が悪い。
雪虎は目を逸らした。
…これだ。これが、怖い。
もうすでに、合わせる顔などないのに。雪虎のことなど、忘れ去ってほしいくらいなのに。
―――――…特別扱いに。秀の、雪虎に対する尊重に。
喜んでしまう、自分がいる。
思い切れないことが、悔しいし、みじめだ。
すぐ、我に返る。
大の男が、嫌いだのなんだの、小学生のような会話ではないか。
仕掛けてしまったのは雪虎だが、みっともないことこの上ない。
「始めておいてなんですが、すみません、止めませんか、この話」
いや、それとも。
こうやって逃げてきたから、今のようになってしまっているのだろうか。
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