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日誌・73 どこかが痛むような

だがやはり、…秀は、解放されるべきだと思う。 もし相手が雪虎ではなく。 茜のように、すべてを包み込むような優しい女性だったなら。…もしくは。 さやかのように、頭の切れる美しい女性だったなら。 並び立てば絵になり、―――――運命、という言葉も当てはまったろうが。 男の、しかも雪虎などでは。 そう、思った矢先。 「…ぁ?」 その症状は、脚から現れた。 声を上げた時には、雪虎はその場に座り込んでいる。 「…トラ?」 何が起こったのか、分からない。 そんな表情で、つい、秀を見上げる。たちまち真剣な、雪虎を案じる視線が返った。 自然に、秀は雪虎の前に膝をつく。 「どうした」 聞かれたが、雪虎は戸惑に声を揺らすしかできない。 「いや、…なん、か」 いきなり、立っていられなくなったのだ。理由が分からない。 ―――――まさか、腰が抜けた? なぜ。 いきなりどうして、と困惑して、雪虎はへたりこんだ膝をさする。 秀が眉をひそめた。 「…痛むのか?」 その大きな掌が伸ばされ、触れた、刹那。 「ぅ、あ」 そこから、じわり、伝わった体温に。 神経が敏感に拾い上げたのは―――――くすぐったさ、というよりも。 雪虎は唖然となった。 (いや待て、嘘だろ嘘だろウソだと言ってくれ…!) 身体の中心に熱を伝える、この際どい感覚には覚えがある。 快感だ。 ―――――察するなり。 それはもっと、はっきりした感覚となって、雪虎を襲った。 雪虎は思わず、身を固くする。膝に触れた指先から、それが伝わったのだろう、 「トラ?」 秀が、どうした、と上目遣いに雪虎を見遣った。 この、…声がいけない。目がいけない。匂いがいけない。体温がいけない。 それらいっさい、つい先ほどまで何も感じなかった、それどころか、気にもとめていなかったのに。 すべてが、雪虎の意識を奪う。 (なんで、いきなり、こんな、急に…っ) 思うなり、脳裏をよぎった声がある。 ―――――気持ちの問題ではないでしょうか。 黒百合の、声だ。 基本的に恭也と雪虎が一緒にいれば、互いの体質を打ち消し合うが、たまに例外がある、その理由の考察を語った時の。 (気持ちの、問題) 黒百合は、そう言った。 もしかすると、今、この状況にもそれが当てはまるのではないか。 実際、…あったではないか。雪虎の中で。 急激な―――――気持ちの変化が。 今まで。 雪虎の中では、秀に対する鬱屈した反感が多くを占めていた。 反発が、勝っていた。 だが、今は。 それが、ほとんど消えている。 (…まさか) たった、それだけの、ことで―――――この変化だというのか。 だが、急な変化の原因と言えば、それしか思いつかない。 確かに、月杜の伝承によると。 祟りを一身に引き受けた娘は、月杜の祖となった鬼の伴侶だ。 あまり認めたくはないが、その娘が雪虎として。 鬼が、月杜の当主―――――即ち、秀であると仮定するなら。 求めあうようにできているのも、不思議はない。 …そこまで考えて、これがあたりなら、二進も三進もいかないと内心頭を抱える。 (嘘だろ) とにかく、今は秀との距離が欲しい。 「会長」 死にそうな気分で、雪虎は声を上げた。 「俺から、離れてくれ」 じりじりと座り込んだまま後退する。だが、背を格子に押し付けるだけで終わった。 仕方なく、足を強く閉じる。それでも衝動が収まらない。 もそもそ、膝を胸まで折り畳んだ。 情けないが、こうして、顔を背けて、小さくなる以外、方法を思いつかない。 みっともないことこの上なかった。 もう、秀は気付いているだろう。雪虎の状態に。 早く、蔑んで、離れてほしい。 強く願うのに、秀は動かない。雪虎の、正面に陣取って、ただ沈黙。 突然の肉体の発情に戸惑う中、雪虎の頭の隅で、疑問が浮かぶ。 (…うん?) たった、今。 気持ちの上で、秀を認めざるを得なかった雪虎がこの状態、になってしまったならば。 はなから雪虎を受け入れていたようだった、秀は。 …雪虎といるとき、いつも、―――――どういう状態だったのだろう。 想像、しかけた矢先。 す、と秀が、身を引くように立ちあがった。踵を返す。片手にランタンを持ち、しずかに雪虎から離れた。 離れてくれたことに、ホッとなる。 そのまま、座敷牢を出ていくのかと思ったが。 (…奥?) なぜか、秀は奥へ向かい、その暗がりに消える。 首を傾げたが、雪虎には好都合だ。 秀と距離が開いたおかげ、なのだろう。 突き上げるような衝動が、幾分か緩くなっている。 ランタンを持って、立ちあがった。 すぐ足がふらつき、格子にもたれかかる。思わず舌打ち。 秀の考えは分からないが、早くここを離れなければ、雪虎の中で、思い出したくない記憶がまた一つ増えるのは確実だ。 すぐそばにある出入り口を潜ろうとした時。 「トラ」 また、名を呼ばれた。秀の声だ。だが、その響き、が。 ―――――もう、最初から、違っている。 こもった、熱が。 思わず、振り向く。次いで、後悔した。無視して、出て行けばよかったのだ。 秀が、奥から戻ってきている。 離れるタイミングを完全に失った。 「…もし、お前が」 すぐ、戻ってきた、秀の手が伸ばされる。今度は、途中で握りこまれたりしない。 ちゃんと、持ち上がって。 雪虎の、頬に触れた。 大きな両手で。左右から。壊れ物でも扱うように。そうっと。 その手首に引っかけられたランタンが揺れて、少し、眩しい。 丁重な扱いに、嬉しいとかくすぐったいというより。 戸惑う。 かつ。 (こっ恥ずかしいんだがっ?) 秀は、身体のパーツすべてがいちいち大きいのに、いつも繊細に動く。 だいたい、旧家の若様らしく、所作の一つ一つが、はっとするほど、品がいい。 逆らえず。 かといって、秀の顔を見上げることもできず。 雪虎は目を伏せた。 目に映るのは、秀の口元。 命令するのに慣れた唇が、一言一言丁寧に、言葉を紡いだ。 「私に同情するというのなら」 秀は、おそらく。 ある程度、察しているのだろう。秀の状況を、雪虎がなんと感じたか。 その上で―――――言うのだ。 苦いような声で。 「これからの私の行動を、許せ」 思わず見上げれば、…どこかが痛むような顔。

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