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日誌・81 備考欄・尚嗣の場合(2)
これだけ時間が経ったのに、まだ捕らわれているのか。
同じことを考えているのだろう、尚嗣はしかめっ面で吐き捨てる。
「会うたび繰り返す。もうウンザリだ」
雪虎は首を横に振って息を吐いた。
「もともと、あの人は身体が弱かった。出産で負担がかかったのは当然で…仕方ない話だろ」
人の死を、仕方ない、と終わらせるのは冷たいだろうか。
勿論、割り切れることでないのは知っている。雪虎とて。
未だ、妹の死を引きずっているのだから。
思いながらも言いきって、雪虎は踵を返した。門へ向かう。
「なんにしたって、お前たちの甥っ子は月杜の跡取りだ」
「そうだよ」
尚嗣は、冷静に頷いた。
「だからこそ、結城家は、月杜の庇護を受けているんだ」
利があり、その上、血縁関係もある。
蟠りを長く持ち続けられるものではないと、雪虎などは思うのだが。
(…何か他に、理由があるのか?)
あるのかも、知れない。雪虎の知らない、何かが。
だが今、語られなかったということは、雪虎には簡単に言えない事情なのだろう。
ならば、雪虎の方も、ありきたりの言葉しか口にできなかった。
「月杜を責めるってことは、甥っ子も責めるってことになるぞ。ちゃんと会って話をしろって大将に言ったらどうだ」
背中を向けて手を振れば、
「…お前は隼人と話をしたのか?」
隼人というのが、秀と茜の一粒種の名だ。背を追って来た、どうでもよさそうな尚嗣の声に。
「さっき、一緒に朝飯食ったぞ。大人しくて可愛いじゃないか。来年、小学生だって?」
雪虎が何気なく言うなり。
「朝飯を一緒に…―――――おい、トラ、それは本当かっ?」
いきなり、ツナギの肩を引っ張られる。驚いて立ち止まり、振り向けば。
寸前の、切羽詰まった口調とは裏腹に、冷や水を浴びたような尚嗣の顔が見えた。
「…どうした」
思わず言えば、尚嗣はぱっと手を離す。火傷でもした態度で。
尚嗣の視線は、雪虎の、露になった首筋辺りに当てられている。その顔色が蒼白だ。
そこには、生々しい鬱血の痕が散っていた。尚嗣はぞっとなる。
そこに、寒気がするほどの執着を感じて。
対する雪虎は不思議そうにずり落ちたツナギを直す。
尚嗣の態度の理由を察して、頭を抱えて悶絶死しそうになるのは、数時間後の話だ。今ではない。
とりあえず、雪虎は尚嗣の言葉を繰り返した。
「本当かって、なにがだ」
「…隼人と一緒に朝飯食ったってのは、本当か」
尚嗣の、ムッとした態度を不思議そうに見遣り、雪虎は首を傾げる。
「ああ。いい子だったな。お前と血のつながりがあるとは思えなかったぞ」
いつものように嫌味を言葉に含んだが、応じずただ目を逸らした尚嗣に、雪虎は肩を竦めた。
「じゃあな、腹黒。体力に任せて無茶したり、危ない橋渡るのはほどほどにしろよ」
「…ああ、トラも―――――ほどほどにな。色々と」
何とはなしに、雪虎の後姿を見送って、…尚嗣は、はじめて気付く。
雪虎の歩き方が、少しぎこちない。なんだか見ていられず、尚嗣も踵を返した。
月杜邸へ向かう。
大股に進めば、広い階段が見え、その上に開け放たれた玄関口が見えた。
そこに立っていたのは。
「おはようございます。時間どおりですね、尚嗣さん」
どれだけ外れた時間帯でも乱れた姿を見たことがない初老の男、黒瀬。
その視線が一度、尚嗣の額を見た。
が、何も言わず、彼は胸に手を当て、折り目正しく礼をした。
「おはよう、黒瀬。会長は」
返事は、玄関の中から返った。
「いる」
階段をのぼれば、開いた玄関から広場のような場所が見える。
真正面から少し外れた隅に見える小さな出入り口が、昔ながらの言い方をすれば、女中たちが行き来する引き戸であり、そこは今、閉ざされていた。
目を右手へ向ければ。
夜にはしっかりと閉ざされる大きな引き戸が開け放たれており、その向こうに和装の長身の男が立っていた。
この男が、月杜家の主、月杜秀。そして、尚嗣の義兄だ。
実の兄と比べれば、相当に扱いにくいし決して思い通りにはいかないが、実兄の正嗣よりも話は通じる相手である。
…寸前に、身構えはしていたが。尚嗣は、意識して、細く長く息を吐きだす。
冷や汗が全身から噴き出した。
毎度ながら、秀と直接相対した時の威圧感には、殺されそうだ。
(年々すごくなってないか…)
尚嗣の脳裏を一瞬過ったのは、正月の時の光景だ。
大きな広間で、上座に座した彼を前に、皆が揃って頭を下げている。
時代がかった慣習と言われそうだが、あれは結局、そうした方がかえって楽だから、皆そうしているだけの話だ。
いくら客として訪れても、秀と真正面から向き合うのは、正直、苦痛を伴う。
取るに足りない相手の挨拶であったなら、秀もこの威圧をセーブしているようなのだが。
親戚の集まりなどと言った時の、当主然とした月杜秀は、ほとんど怪物だ。
「おはよう」
その怪物の目が、一瞬、尚嗣の額を見る。
だがやはり、赤くなっているだろう額に関しては何も言わない。
ひとまず、尚嗣は丁寧にあいさつした。
「おはようございます」
尚嗣を知る他の者が見れば、驚いただろう。
この傍若無人な男が、ここまで丁重に頭を下げるとは、と。
「月杜の力を貸してほしいということだったね。来なさい。話を聞こう」
秀は、基本的に端的で、手短だ。余計なことを嫌う傾向にある。雑談など、もってのほか。
今回のこととて、尚嗣に時間を割いてはくれたが、話次第では断られる可能性もある。
なにより。
(―――――この間、トラを危険に遭わせた遠因が俺にあるからな…)
ただ、何も言わずとも、秀はいっさい承知のはず。それが、何の追及もないのだ。
ならば、余計なことは言わないに限る。
「そう言えば、旦那さま」
さっさと奥へ進んだ秀に、慌てて靴を脱いで後に続いた尚嗣について行きながら、黒瀬が素知らぬ顔で口を開いた。
「さきほど、雪虎さまが『前着てたツナギは寝てる間に捨てられたから、今回は置いておいてもらえて助かった』と仰られたのですが、…捨てられたのですか?」
そう言えば以前はツナギを着て帰られませんでしたね、と黒瀬が言う。
着て帰ったのは、別の日に雪虎が置いて帰った服だった、と。
前を進む秀は、いつもの口調で言った。
「それを、本当に知りたいのか?」
間に挟まれた尚嗣は、漂った妙な空気に、居心地が悪くなる。
なにより、続きを聞いていい話とは思えず、咄嗟に口を挟んだ。
「そう言えば、隼人とはもう会えるんですか」
「…なに?」
「さっき、トラが隼人と朝食を一緒にしたと話をしたので、もう大丈夫なのかと」
実のところ。
その話に、尚嗣は驚いた。
赤ん坊だったころはともかく、物心ついてからこっち、隼人と会えたためしがなかったからだ。親戚同士の集まりの時もそうだ。
思えば、秀も、子供の頃はろくに表に出てこなかった記憶がある。
それはおそらく、―――――月杜家の能力めいたものに原因があるのだろう。
「悪いが、まだだ。世話役の刀自にしか任せられん」
応じる秀は、けんもほろろ。
もちろん、尚嗣も理由なら察しはつくが。
「…ならどうして、トラは」
「アレに月杜の力は通らない」
ああ、だからか。
理解はしたが、感情はなかなか納得しない。
そもそも、甥っ子とろくに会わせてもらえないからこそ、正嗣はなお鬱屈したものを募らせているのではないか。
「隼人は来年、小学生です。…せめて、結城の兄に会わせて頂くことは、できませんか」
尚嗣は、自分が人でなしの自覚はある。
だが兄は違う。善人だ。…善人、だが。―――――愚かだ。残念なことに。
愚かな善人は、賢い悪人より、始末に負えないところがある。
「これは、私の都合ではない」
答える秀の声に、感情らしいものは窺えない。
こういうところが、正嗣の癇に障るのだろう。
「周囲のためだ。…お前は、自身の行動を、道理も分からない幼子の言葉で決定されたいか」
…答えは否だ。秀は正しい。だが。
「なら、せめて」
半ばあきらめの心地で、尚嗣は重い息を吐いた。
「結城の兄には、お気をつけてください」
月杜は、巨大だ。
だからこそ、蟻が少し噛んだ程度では何の痛痒も感じず、気にも留めない。
ただそれで、結果として取り返しがつかない月杜の不興を買ってしまうのは、尚嗣にとっては痛手だ。
正嗣は、そういう悪手を取ってしまう危険性があった。
バカな男。だが、兄だ。そして。
―――――茜が心底惚れていた相手。彼女が、墓まで持って行った、禁忌。
(…どいつもこいつも、本当に)
やりきれない気分で、尚嗣はため息をついた。
「もちろん、…釘は刺しておきますが」
黒瀬は、無言。ただ黙って、会話を聞いている。
「気に留めておこう」
秀は頷いたが、どこまで察したかは分かりにくい。
…こんな、男だからこそ―――――つながらない。
尚嗣は、眉をひそめた。先ほど見たものを、思い出したからだ。それは。
―――――雪虎の身体に刻まれた、執拗なほどの鬱血の痕。
野卑な獣めいたあれを―――――本当に、この男が刻んだというのか。
いや、雪虎が月杜の屋敷から出てきた以上、この男以外の相手など、考えられないのだが。
目の前にあるのは。
一挙一動の格式高さ、王侯貴族とはおそらくこういうものなのだろうと思わせる、見惚れるほどの品位だ。
もちろん、月杜に関わり、その深みに近い親戚たちは、全員知っている。
雪虎が、月杜にとっての特別だと。
そう、…特別、ではあるものの。
ただ大切にするにしては、―――――あの、痕跡は。
異常だ。
先ほどが、初めてだったかもしれない。
伝承を、事実として感じたのは。伝承―――――即ち、月杜が鬼の血統であるということ。
また、尚嗣は、背後の黒瀬を意識した。大丈夫だ、この男なら、聞いて聞かぬふりをするだろう。
尚嗣は、慎重に口を開いた。
「会長にとって、トラが特別なのは知っています。でもそれは、」
見るなり、つい青ざめたことを思い出す。
あのとき、雪虎が、生きていることが不思議だと、そう、尚嗣は感じたのだ。
性的な痕跡、というより、アレは―――――生々しい食事の痕、のような。
「愛や恋とか言いませんよね」
言いながら、陳腐な言葉だと尚嗣は思う。かえって、正気を取り戻した。
(どこの小娘の台詞だ)
我ながら、可笑しくなる。ふ、と息をつき、気楽に言葉を続けた。
「まさか、あなたに限って」
歴史の深い、長い廊下を進みながら、尚嗣は肩を竦める。
秀の言葉が返るのは、すぐだった。
「私はただ知っているだけだ」
なんでもないことのように。
いつものごとく、淡々と。
「自分が何のために存在しているのかを」
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