82 / 197

日誌・81 備考欄・尚嗣の場合(2)

これだけ時間が経ったのに、まだ捕らわれているのか。 同じことを考えているのだろう、尚嗣はしかめっ面で吐き捨てる。 「会うたび繰り返す。もうウンザリだ」 雪虎は首を横に振って息を吐いた。 「もともと、あの人は身体が弱かった。出産で負担がかかったのは当然で…仕方ない話だろ」 人の死を、仕方ない、と終わらせるのは冷たいだろうか。 勿論、割り切れることでないのは知っている。雪虎とて。 未だ、妹の死を引きずっているのだから。 思いながらも言いきって、雪虎は踵を返した。門へ向かう。 「なんにしたって、お前たちの甥っ子は月杜の跡取りだ」 「そうだよ」 尚嗣は、冷静に頷いた。 「だからこそ、結城家は、月杜の庇護を受けているんだ」 利があり、その上、血縁関係もある。 蟠りを長く持ち続けられるものではないと、雪虎などは思うのだが。 (…何か他に、理由があるのか?) あるのかも、知れない。雪虎の知らない、何かが。 だが今、語られなかったということは、雪虎には簡単に言えない事情なのだろう。 ならば、雪虎の方も、ありきたりの言葉しか口にできなかった。 「月杜を責めるってことは、甥っ子も責めるってことになるぞ。ちゃんと会って話をしろって大将に言ったらどうだ」 背中を向けて手を振れば、 「…お前は隼人と話をしたのか?」 隼人というのが、秀と茜の一粒種の名だ。背を追って来た、どうでもよさそうな尚嗣の声に。 「さっき、一緒に朝飯食ったぞ。大人しくて可愛いじゃないか。来年、小学生だって?」 雪虎が何気なく言うなり。 「朝飯を一緒に…―――――おい、トラ、それは本当かっ?」 いきなり、ツナギの肩を引っ張られる。驚いて立ち止まり、振り向けば。 寸前の、切羽詰まった口調とは裏腹に、冷や水を浴びたような尚嗣の顔が見えた。 「…どうした」 思わず言えば、尚嗣はぱっと手を離す。火傷でもした態度で。 尚嗣の視線は、雪虎の、露になった首筋辺りに当てられている。その顔色が蒼白だ。 そこには、生々しい鬱血の痕が散っていた。尚嗣はぞっとなる。 そこに、寒気がするほどの執着を感じて。 対する雪虎は不思議そうにずり落ちたツナギを直す。 尚嗣の態度の理由を察して、頭を抱えて悶絶死しそうになるのは、数時間後の話だ。今ではない。 とりあえず、雪虎は尚嗣の言葉を繰り返した。 「本当かって、なにがだ」 「…隼人と一緒に朝飯食ったってのは、本当か」 尚嗣の、ムッとした態度を不思議そうに見遣り、雪虎は首を傾げる。 「ああ。いい子だったな。お前と血のつながりがあるとは思えなかったぞ」 いつものように嫌味を言葉に含んだが、応じずただ目を逸らした尚嗣に、雪虎は肩を竦めた。 「じゃあな、腹黒。体力に任せて無茶したり、危ない橋渡るのはほどほどにしろよ」 「…ああ、トラも―――――ほどほどにな。色々と」 何とはなしに、雪虎の後姿を見送って、…尚嗣は、はじめて気付く。 雪虎の歩き方が、少しぎこちない。なんだか見ていられず、尚嗣も踵を返した。 月杜邸へ向かう。 大股に進めば、広い階段が見え、その上に開け放たれた玄関口が見えた。 そこに立っていたのは。 「おはようございます。時間どおりですね、尚嗣さん」 どれだけ外れた時間帯でも乱れた姿を見たことがない初老の男、黒瀬。 その視線が一度、尚嗣の額を見た。 が、何も言わず、彼は胸に手を当て、折り目正しく礼をした。 「おはよう、黒瀬。会長は」 返事は、玄関の中から返った。 「いる」 階段をのぼれば、開いた玄関から広場のような場所が見える。 真正面から少し外れた隅に見える小さな出入り口が、昔ながらの言い方をすれば、女中たちが行き来する引き戸であり、そこは今、閉ざされていた。 目を右手へ向ければ。 夜にはしっかりと閉ざされる大きな引き戸が開け放たれており、その向こうに和装の長身の男が立っていた。 この男が、月杜家の主、月杜秀。そして、尚嗣の義兄だ。 実の兄と比べれば、相当に扱いにくいし決して思い通りにはいかないが、実兄の正嗣よりも話は通じる相手である。 …寸前に、身構えはしていたが。尚嗣は、意識して、細く長く息を吐きだす。 冷や汗が全身から噴き出した。 毎度ながら、秀と直接相対した時の威圧感には、殺されそうだ。 (年々すごくなってないか…) 尚嗣の脳裏を一瞬過ったのは、正月の時の光景だ。 大きな広間で、上座に座した彼を前に、皆が揃って頭を下げている。 時代がかった慣習と言われそうだが、あれは結局、そうした方がかえって楽だから、皆そうしているだけの話だ。 いくら客として訪れても、秀と真正面から向き合うのは、正直、苦痛を伴う。 取るに足りない相手の挨拶であったなら、秀もこの威圧をセーブしているようなのだが。 親戚の集まりなどと言った時の、当主然とした月杜秀は、ほとんど怪物だ。 「おはよう」 その怪物の目が、一瞬、尚嗣の額を見る。 だがやはり、赤くなっているだろう額に関しては何も言わない。 ひとまず、尚嗣は丁寧にあいさつした。 「おはようございます」 尚嗣を知る他の者が見れば、驚いただろう。 この傍若無人な男が、ここまで丁重に頭を下げるとは、と。 「月杜の力を貸してほしいということだったね。来なさい。話を聞こう」 秀は、基本的に端的で、手短だ。余計なことを嫌う傾向にある。雑談など、もってのほか。 今回のこととて、尚嗣に時間を割いてはくれたが、話次第では断られる可能性もある。 なにより。 (―――――この間、トラを危険に遭わせた遠因が俺にあるからな…) ただ、何も言わずとも、秀はいっさい承知のはず。それが、何の追及もないのだ。 ならば、余計なことは言わないに限る。 「そう言えば、旦那さま」 さっさと奥へ進んだ秀に、慌てて靴を脱いで後に続いた尚嗣について行きながら、黒瀬が素知らぬ顔で口を開いた。 「さきほど、雪虎さまが『前着てたツナギは寝てる間に捨てられたから、今回は置いておいてもらえて助かった』と仰られたのですが、…捨てられたのですか?」 そう言えば以前はツナギを着て帰られませんでしたね、と黒瀬が言う。 着て帰ったのは、別の日に雪虎が置いて帰った服だった、と。 前を進む秀は、いつもの口調で言った。 「それを、本当に知りたいのか?」 間に挟まれた尚嗣は、漂った妙な空気に、居心地が悪くなる。 なにより、続きを聞いていい話とは思えず、咄嗟に口を挟んだ。 「そう言えば、隼人とはもう会えるんですか」 「…なに?」 「さっき、トラが隼人と朝食を一緒にしたと話をしたので、もう大丈夫なのかと」 実のところ。 その話に、尚嗣は驚いた。 赤ん坊だったころはともかく、物心ついてからこっち、隼人と会えたためしがなかったからだ。親戚同士の集まりの時もそうだ。 思えば、秀も、子供の頃はろくに表に出てこなかった記憶がある。 それはおそらく、―――――月杜家の能力めいたものに原因があるのだろう。 「悪いが、まだだ。世話役の刀自にしか任せられん」 応じる秀は、けんもほろろ。 もちろん、尚嗣も理由なら察しはつくが。 「…ならどうして、トラは」 「アレに月杜の力は通らない」 ああ、だからか。 理解はしたが、感情はなかなか納得しない。 そもそも、甥っ子とろくに会わせてもらえないからこそ、正嗣はなお鬱屈したものを募らせているのではないか。 「隼人は来年、小学生です。…せめて、結城の兄に会わせて頂くことは、できませんか」 尚嗣は、自分が人でなしの自覚はある。 だが兄は違う。善人だ。…善人、だが。―――――愚かだ。残念なことに。 愚かな善人は、賢い悪人より、始末に負えないところがある。 「これは、私の都合ではない」 答える秀の声に、感情らしいものは窺えない。 こういうところが、正嗣の癇に障るのだろう。 「周囲のためだ。…お前は、自身の行動を、道理も分からない幼子の言葉で決定されたいか」 …答えは否だ。秀は正しい。だが。 「なら、せめて」 半ばあきらめの心地で、尚嗣は重い息を吐いた。 「結城の兄には、お気をつけてください」 月杜は、巨大だ。 だからこそ、蟻が少し噛んだ程度では何の痛痒も感じず、気にも留めない。 ただそれで、結果として取り返しがつかない月杜の不興を買ってしまうのは、尚嗣にとっては痛手だ。 正嗣は、そういう悪手を取ってしまう危険性があった。 バカな男。だが、兄だ。そして。 ―――――茜が心底惚れていた相手。彼女が、墓まで持って行った、禁忌。 (…どいつもこいつも、本当に) やりきれない気分で、尚嗣はため息をついた。 「もちろん、…釘は刺しておきますが」 黒瀬は、無言。ただ黙って、会話を聞いている。 「気に留めておこう」 秀は頷いたが、どこまで察したかは分かりにくい。 …こんな、男だからこそ―――――つながらない。 尚嗣は、眉をひそめた。先ほど見たものを、思い出したからだ。それは。 ―――――雪虎の身体に刻まれた、執拗なほどの鬱血の痕。 野卑な獣めいたあれを―――――本当に、この男が刻んだというのか。 いや、雪虎が月杜の屋敷から出てきた以上、この男以外の相手など、考えられないのだが。 目の前にあるのは。 一挙一動の格式高さ、王侯貴族とはおそらくこういうものなのだろうと思わせる、見惚れるほどの品位だ。 もちろん、月杜に関わり、その深みに近い親戚たちは、全員知っている。 雪虎が、月杜にとっての特別だと。 そう、…特別、ではあるものの。 ただ大切にするにしては、―――――あの、痕跡は。 異常だ。 先ほどが、初めてだったかもしれない。 伝承を、事実として感じたのは。伝承―――――即ち、月杜が鬼の血統であるということ。 また、尚嗣は、背後の黒瀬を意識した。大丈夫だ、この男なら、聞いて聞かぬふりをするだろう。 尚嗣は、慎重に口を開いた。 「会長にとって、トラが特別なのは知っています。でもそれは、」 見るなり、つい青ざめたことを思い出す。 あのとき、雪虎が、生きていることが不思議だと、そう、尚嗣は感じたのだ。 性的な痕跡、というより、アレは―――――生々しい食事の痕、のような。 「愛や恋とか言いませんよね」 言いながら、陳腐な言葉だと尚嗣は思う。かえって、正気を取り戻した。 (どこの小娘の台詞だ) 我ながら、可笑しくなる。ふ、と息をつき、気楽に言葉を続けた。 「まさか、あなたに限って」 歴史の深い、長い廊下を進みながら、尚嗣は肩を竦める。 秀の言葉が返るのは、すぐだった。 「私はただ知っているだけだ」 なんでもないことのように。 いつものごとく、淡々と。 「自分が何のために存在しているのかを」

ともだちにシェアしよう!