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日誌・82 備考欄・幸恵の場合(1)

× × × チリン。 店のドアが開いた音に、高原幸恵はきらきらした大きな目が印象的な顔を上げた。 「あ、ごめんなさい、まだ開店時間じゃなくって~」 モップを握り締め、せっせと掃除していた彼女は、言いながら顔を上げる。 入ってきた相手は、ドアを開けたまま立ち止まった。 「おはよう、お嬢。少し、早かったかな」 だが入ってきた相手の姿を認めた瞬間、ぱっと花開くような笑顔になり、 「いらっしゃい、トラさん!」 相手を歓迎するように、モップを投げ出すや否や。 「そして申し訳ありませんでしたぁ!!」 その場で土下座した。相変わらず、うつくしい土下座だった。 × × × 高原幸恵。 彼女は、以前雪虎が住んでいたアパートの隣のマンションの住人だ。 はじめに二人が、話すようになったきっかけが彼女なら。 幸恵が勤める美容院に雪虎が来るようになったのも、きっかけは彼女だ。 むろん、雪虎には、積極的な洒落っ気などない。ただ、男が髪を切るだけだ。散髪屋で十分と思う。 だが、いかんせん、雪虎の体質が体質である。 髪を切るには帽子を脱がねばならず、そうなると、顔を晒すことになる。 ゆえに、散髪屋をはじめ、客商売の店に入るのは実のところ、申し訳ない気分になる。 自分でカットできればいいのだが、自分の髪となればそんなわけにいかない。 客と相対する社会人である以上、髭もさもさ髪ぼうぼうというわけにもいかなかった。 清潔にしておく必要は、どうしてもある。 結果として、いつもぎりぎりまで放っておいたところ。 もう我慢できない、と幸恵が職場に雪虎を引きずって行ったのだ。 幸恵の配慮は抜群だった。 周囲の目と店の評判を気にする雪虎を察して、営業時間前に奥の方の席でカットしてくれる。 そうしていい、と店長からの許可もわざわざ取ってくれた。 というか、カット担当は店長さんである。 美容院など柄ではないが、幸恵の配慮は雪虎の気を楽にしてくれた。 いい子なのである。 ―――――いくら彼女に付きまとっていたストーカーが引き起こしたボヤ騒ぎが原因で、雪虎が住んでいたアパートが幕を閉じることになったとしても、幸恵の責任ではない。 悪いのはストーカーの男だ。 なのに幸恵は、ずっとそれを気にしているらしい。 冒頭の土下座も、それが原因だ。 きれいな髪が床につくから顔を上げてくれ、と雪虎が宥めること数分。 店長がカットしてくれている最中も、めそめそしながら幸恵は雪虎の周囲をちょろちょろしていた。これ以上慰める言葉も思いつかない、と雪虎は気のすむようにさせていたが。 彼女の役目であるシャンプーをする頃になると、ご機嫌ないつもの幸恵に戻っていた。 幸恵は、気分や表情がころころ変わる。 そういうところに、ある意味救われていた。 その頃には、店長や他の美容師も揃い始め、店の雰囲気はさらに明るくなる。 最初は雪虎にギョッとしていた彼らも、今では慣れたもので、すぐ受け入れてくれる。ありがたい話だ。 「そう言えば、今日はトラさんの日だったんですね」 「なんです、それ」 お姉さん然とした長い黒髪の美容師が言うのに、雪虎は小さく笑う。 「早起きが苦手なさっちゃんが掃除当番買って出る日のことですよ」 「もう、先輩っ。掃除はいつも買って出てるじゃないですか」 「張り切り方が違うのよ」 「そうかなぁ」 人間関係がいいのだろう、店の中は雰囲気がいい。きらきらと華やかだが、押しつけがましくなく優しかった。 一通り先輩と盛り上がった後で、幸恵が雪虎に話しかけてくる。 「日曜日だから今日はトラさんお休みでしょ、これからどこ行くの」 何が楽しいのか、基本的に幸恵は、雪虎と話すときは満面に笑みを浮かべてくれている。 それにつられるのか、幸恵と一緒のときは、雪虎もつい笑顔になることが多かった。 ゆったりと構えて、穏やかに微笑む。 「俺個人としては、適当に本屋巡りしようかなと。そうだ、ここ、また待ち合わせ場所にさせてもらったけどよかったかな」 「いいよぉ、そんなの。なに、この間の、可愛い系の大学生くんと一緒に行くの?」 バイトの筒井真也のことで間違いないだろう。 二ヶ月ほど前、休日にいきなり仕事が入った時に、ここを待ち合わせに使わせてもらって合流した。…が、可愛い系。 あまり真也の顔立ちについて、考えたことはない。とはいえ、確かに、言われてみれば犬っころである。 「豆しばっぽいよな」 「ぽいぽい」 雪虎の真面目な言葉に、幸恵がけらけら笑う。 「可愛かったわよね!」 好みだったか、お姉さん系の先輩が興奮気味に声を上げた。 「そこのソファで小さくなっちゃって」 レジ付近にいた店長が髪を耳にかけ、お母さんぽい顔で微笑んだ。 「一見、チャラいのに、そうじゃないんだなってギャップがなんとも」 仕事道具の収まったベルトを腰に巻いていた男の美容師がにやにやとからかい気味に笑う。 店員は、女三人、男二人。 女性だらけというわけではないのだが、やはり、美容院など馴染みのない男にとって敷居は高いのかもしれない。店の雰囲気に、おっかなびっくり、借りてきた猫のようになっていた真也を思い出し、髪をドライヤーで乾かしてもらいながら、雪虎は頭を横に振った。 「この間のバイトじゃなくて、今日のは後輩」 「後輩? 仕事の?」 「そ。今はな。でも付き合いは、小学校から」 「へえ! でもそれなら、夜、飲みに行くとかしないの? 休日の朝から改めて待ち合わせて会うって…」 なんだかデートみたい、と言いかけ、尻すぼみになる幸恵。あれ、まさか、と思う。 その矢先、雪虎が言った。 「そういやアイツ、見たい映画があるとか言ってたな」 「え、もしかして女の子? 彼女?」 「なんでそうなる」 食い気味に言って、目を好奇心に輝かせた幸恵に、雪虎は口をへの字にする。 幸恵は唇を尖らせた。 「えー、でもいるよね、トラさんなら。興味あるんだけど! 紹介してよ~」 「だからいないって」 どちらかと言えば、女性からは嫌われてばかりだ。 過去の女性たちから向けられた嫌悪感が、いったい、どれほどのトラウマを雪虎に刻んでいることか。 何度も言っているのに、幸恵は信用しない。 「今回、アイツと休みに会うのは、前、無理に遅くまで連れ回したお詫びなんだよ」 「飲みに行ったの?」 「いや、したのは楽しいことじゃなかったから逆に悪いなって思ってさ。それにアイツと夜飲みに行ったことってないな。夜、一緒に俺と酒呑むのはちょっとって断られる」 ちょっとってなんだろう。 いつも思うが、突っ込んでみたことはない。 なにせ、 「まあ俺も誰かと一緒に酒なんてしんどいからそれでいいんだけど」

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