84 / 197

日誌・83 備考欄・幸恵の場合(2)

「なにそれ、怪しい!」 打てば響くような幸恵の反応に、雪虎が苦笑した時。 ―――――ドアベルが鳴った。音に重なって、礼儀正しい、落ち着いた声。 「失礼します、ここで待ち合わせの約束してるんですが…」 すっと耳に入ってくる低い声。 流れ込んだ空気に混じる、薄いたばこのにおい。 誰が来たか、雪虎はすぐにわかった。 幸恵に髪をやってもらいながら、雪虎は振り向かず、鏡に映った相手に片手を挙げる。 「おはよう、後輩」 すぐ、山本浩介が、丁寧に頭を下げた。 「おはようございます、トラ先輩」 浩介の格好は、いつも通りだ。 短く刈り上げた髪。 すっきりした出で立ち。 オフの時は黒縁の眼鏡をかけていることもあり、知的な雰囲気を醸し出していた。 「あ、そいつ、さっき言った、俺の連れです」 出入り口近くのレジ付近でいた店長が顔を上げるのに、雪虎は声をかけ、 「そっちのソファで待っててくれ」 続いて浩介に指示を出す。 浩介は頷いた。 雪虎が指さした方向へ、失礼します、と周囲に断りを入れながら浩介は進む。 猫背気味だが、長身で足が長い浩介は目立った。 はじめての場所にも物おじせず、浩介は外から見えるソファに自然体で腰掛ける。 一連の動きが、その落ち着きのせいか大人びていて、スマートだ。二か月前、入ったはいいが、おたついた真也の態度とは雲泥の差。 「え、え、やだあの人がトラさんの後輩…っ?」 小声で幸恵がやだとか言ったので、否定的な意味かと思った雪虎は、一応フォローを入れた。 「怖い? ごめんな、変に迫力あるけど、だれかれ構わず殴ったりしないから」 幸恵は鋭い。 その嗅覚で、浩介から暴力に慣れた匂いでも嗅ぎ取ったのかと思ったのだが。 「そうじゃなくって!」 首がもげるんじゃないかという勢いで顔を横に振る幸恵。 「かっこいいんですけど! ガタイいいな~…なになに、スポーツでもやってた? 後輩って仕事の前は、部活の後輩だったり?」 ドライヤーの音の向こうから、幸恵が興奮気味に囁いてくる。雪虎は曖昧に笑った。 幸恵の言葉は、時々理解不能だが、これは、浩介の存在を肯定的に受け止めてもらえたと思っていいのだろう。 初見の相手が入ってきたためか、店内には薄い緊張が走り、瞬間、皆が口を閉ざした。 (まあいくら知的に見えても、あいつ、変に迫力あるからなぁ) ただ、それをまったく気にしない猪娘が幸恵である。 「はじめまして~、トラさんの後輩さん! これから映画って何観るんですかぁ?」 ドライヤーを止め、ひとつも臆さず、雑誌を手に取った浩介に声をかけた。 雪虎は内心、キョトン。いや、映画を観に行く、などとは言っていない。 浩介が、観たい映画があると言っていただけだ。 よくあることだが、幸恵といると、いつの間にか身に覚えのない話が出来上がっている。 驚いた様子もなく顔を上げ、浩介は微笑んだ。人好きのする笑みだ。 これが曲者なのだが。 「はじめまして。そうだな、観たいのは、」 続けて、最近話題の映画のタイトルをすらすら口にするのに、雪虎は目を瞬かせる。 「本気で映画観るのか? 俺と?」 「いやなら他にしますか?」 「お前の希望に合わせるから、別に映画でいいけど。デートかよ」 びっくりした態度で雪虎が言うのに、聞いていた全員が内心で突っ込んだ。 ―――――あっ、思ってても誰も言わなかったのに。 微笑みをひとつも崩さず、落ち着き払って、浩介。 「光栄ですね。ならそのあとで食事してカラオケ行って水族館でも行きますか」 「俺は本屋へ行くって言っといただろ」 「はい。分かっています、お付き合いします」 「いやいやいや、だっから、今日付き合うのは俺なんだって」 なんだかあべこべだな、と言いたげな表情で、雪虎は唸る。 「お前が行きたいならいいけど、どうせ行くなら彼女と行ったらどうだ」 「無理ですよ。アイツ、恋愛映画ばかり観たがるんで」 それでお鉢が雪虎に回ってきた、と。 「…なら仕方ないか…」 呟く雪虎。 了解は先に取っていたが、折角の休日に、彼女との時間を邪魔したのでなければよかったのだが。 「あ~、やっぱり、彼女さんいるんですかぁ。後輩さん、モテそうですもんね」 うんうん頷く幸恵に、改めて雪虎は鏡越しに浩介を見遣った。 モテそうに見える、とはどういうことをいうのだろう。雪虎にはよく分からない。 が、ふとした瞬間、底抜けの暴力性が覗く以外は、確かに、山本浩介はいい男である。 ただし、その暴力性も―――――理由、あってのことなのだが。 雪虎は、ふ、と鏡の中の浩介から目を逸らした。 次いで、からかうように一言。 「そうなんだよ、小学生の時から色々な」 女子の間で、浩介と誰が一番長く手をつないだ、とか。 今日は誰が浩介と一緒に帰る、とか。 学年が違うから、まばらにしか耳にしたことはないが、そういう会話を何度か聞いた。 「モテるってわけじゃありませんよ」 浩介の笑みに、困惑がわずかに混じる。 「基本的に、おれ、女の子の本命にはされないんで」 微妙な言い回しだった。 「でも今は彼女いるんですよね」 幸恵は気にせず、さらり。 ―――――強い子。 雪虎を含め、皆がそう思ったに違いない。 そうだね、と浩介は穏やかに雑誌に目を戻した。 「にしたって、小学校から今までの付き合いってすごいですよね。でも、先輩後輩ってことは学年違うんでしょ? 小学生の時どうやって知り合ったんですか? やっぱり部活?」 刹那。 雪虎の脳裏で、雪の中の光景が浮かんだ。 寒い冬。 この辺りでは珍しい、雪景色。 顔の下半分を、マフラーでぐるぐる巻きにした雪虎は、大きな通りから離れた路地裏に入ろうとした時、その光景を目撃した。 大人から、無抵抗に数発殴られて、ボロ雑巾みたいに放り出された年下の少年の姿を。 見た瞬間―――――自分の姿が重なった、せいか。 カッとなって雪虎は叫び、駆け出た。 ―――――何やってんだよ! 大人は雪虎がたどり着く前に立ち去ったが、なにも、雪虎の剣幕が怖かったわけではあるまい。 雪虎の上げた声が衆目を集めたのに、バツが悪くなった。 それだけの話だ。 これが、雪虎の初めて見た、浩介と、彼の父親だ。 「残念だけど、トラ先輩は部活に入らなかったから」 代わりに雪虎は、家事に励んでいた記憶がある。 「お前は叔父さんのボクシングジムに通ってたしな」 浩介の父親の弟が、経営者だった。 おそらく彼は、なにがしか察するところがあったのだろう。 放課後甥っ子をジムに呼んで、雑用をさせたり鍛えたり、宿題を教えたりしていた。 幸か不幸か、浩介には才能があった。 面白がった叔父が、ボクシングに限らず、格闘技全般を学ばせた結果。 小学校五年の時には、浩介は、高校生と間違われるような体格と落ち着きを身に着けていた。

ともだちにシェアしよう!