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日誌・84 備考欄・幸恵の場合(3)

そうやって、早々に、大人びた雰囲気をまとっていたせいかもしれない。 女の子たちから熱い視線を集めていたのは。 「ボクシング!」 幸恵が声を跳ね上げる。 「この辺りにそんなとこあるんですか」 「昔の話ね。とっくの昔に経営成り立たなくなって、看板下ろしたよ」 「あー、やっぱり、難しいんですねえ」 ちょっと興味を持ったような、残念そうな態度で言って、幸恵は話を元に戻した。 「じゃあなんで仲良くなったんです」 「なかよく…」 幸恵の台詞に、雪虎は少し、唖然。 確かに、仲は悪くない。だが、『仲良し』とはなんとなく違う気がした。 浩介に、気にした様子はない。 少し嬉しそうに、柔らかい声で答えた。 「トラ先輩はおれの恩人なんだ」 答えになっているようで、なっていない。 まあ、他人に話せるようなことでもなかった。 出会ったばかりの頃の浩介を、ふと、雪虎は思い出す。 間違っても、こんな、柔らかい対応ができる人間ではなかった。 出会ったばかりの頃、もどかしい思いを持て余し、幼い雪虎は叱りつけるように浩介に聞いた。 ―――――なあ、なんで抵抗しないんだよ。お前、強いじゃん。 ―――――父親に、抵抗なんかしちゃいけないって…。 ―――――誰が言ったんだよ。誰が決めたんだよ。抵抗しろよ。死にたいのかよ。 ―――――いいよ、それで。おれが死んでも、誰も何とも思わないよ。 ―――――俺はかなしい。寂しい。いやだ。そんなのは。 脳裏をよぎった、幼い言葉に、ああ、遠いな、と思う。 今ここで、浩介がこんな風に穏やかでいる確率は、当時、どの程度残ってたんだろう。 正直な、ところ。 ―――――今、ここにある、この何気ない光景は。 (奇跡だよな) 改めて、雪虎は思った。 かつて、山本家の、父と、母と、息子の歪で痛々しい関係は。 小学生でも大柄だった息子が、父親に抵抗した瞬間に、終止符を打った。 息子が抵抗しなければ、父親は妻を殺していただろう。そして、居合わせた雪虎が浩介の拳を身体を張って止めていなければ。 息子は―――――父親を殺していただろう。 結果として雪虎は腕一本、あばらを三本折ったが、誰も死ななかったのだ。 御の字と言える。 雪虎が、中学生に上がる前。小学生の時、起きた騒動の、最後の一つ。 蛇足だが、このとき、入院した雪虎の見舞いに、秀が現れた。 その頃からだ。 秀がやたら、雪虎に過保護になったのは。 ―――――あれは荒神の質だ。 かつて、浩介を評して、秀はそう言った。 ―――――安心しろ、もう首輪をつけた。二度とトラを傷つけない。 拒めば雪虎にはもう会わさないと言えば、喜んで従ったぞ、と。 不吉なことを真顔で言われた雪虎が、秀に何をされたんだと聞いても、浩介は首を横に振るばかりで答えなかった。 そうして、雪虎は小学校を卒業して。 中学に入学した直後、祖母・巴が亡くなった。 以後、中学卒業まで雪虎は荒れまくったわけだが、一年遅れで入学した浩介は、雪虎が変わったことも気にせず、何も言わずについて歩くようになった。 一年の時、秀に取り返しのつかないことをしたように、当時の雪虎は誰に何をするか分からなかった。 ゆえに、自分を危険に感じて、基本的に守る相手であるさやか以外とはつるむことをしなかったわけだが。 浩介は、雪虎の後を追い、愚鈍なほど従順に従った。 ゆえに、…必然、だったかもしれない。 雪虎の中で、衝動的に、誰かを傷つけたい、それ以上に、傷つけられたい、という欲求が津波の様に襲ってきた、そのとき。 対象が、浩介になってしまったのは。 …あれは、遊戯で勝利を得ながらも、女が当たらなかったとき、だろうか。 ―――――ちょっと付き合えよ。 言った雪虎に、浩介を傷つけるつもりがあると、浩介は察していたはずだ。 なのに浩介はついてきた。逆らうことなど思いつかないといった態度で。 ただ、セックスまではしていない。 双方の性器をこすり合わせて扱いた、それだけ。 ただ。 吐きだした、体液が。 雪虎の腹にかかった、時。 浩介は泣いた。 ―――――すみません、トラ先輩を汚すなんて、…最悪だ。すみません、すみません。 それは本当に、純粋な涙で。 純朴な反応で。 罪悪感のひどさと言ったら、なかった。 (いやどう考えても、悪いのは俺だろ) 雪虎と一緒にいたら浩介はダメになる。確信した雪虎は、決意した。 浩介を、突き放すことを。 高校は絶対、雪虎と別のところへ行けとこんこんと諭した結果。 浩介は進学校へ進み、―――――それからだ。 浩介が今のように変わっていったのは。 それがいいことか悪いことかは、雪虎程度では判断つかないが。 お互いどうにか無事、大人になれたことには、何の采配か知らないが、感謝している。 「まだ言ってんのかそれ」 こんな風にからかい気味に言えるのも、昔は考えられなかった話だ。 「あ」 てきぱきと手を動かしながら、鏡の中で、何に気付いたか、 「ほら、ほらほら、さっき、外通った女の子たち」 幸恵が声を弾ませる。 「後輩さんのこと、ちらちら見ていきましたよ~。あんなひと待たせてる彼女ってどんなヤツだって思ってる感じ」 そう言えば先ほど、幸恵は浩介を格好いいと言った。 長い付き合いのせいか、改めて雪虎が浩介の容姿に対して思うところはないのだが、確かに、浩介には女が途切れたことはない。 ということは。 (慣れてるのかもな) 店の中に入ってさして緊張した風もなかったのは、浩介はもしかすると、こうして彼女に付き合うことが多い可能性がある。 「…仕事の邪魔かな」 浩介が言うのに、まっさかー、と笑い飛ばす幸恵。 「いい客寄せです。って、失礼ですね、すみません」 浩介は無言。ただ、穏やかに微笑んだ。 「はい、できましたよ、トラさん」 「ありがとな、お嬢」 そろそろ、店も開店時間だ。 客が入る前に、雪虎としては早々に退散しておきたい。 雪虎が会計を済ませている間にも、幸恵は明るく話し続ける。 「ところで、あのあと、トラさんは、管理人さんとは会った?」 「電話では話したよ。…県外の息子さんのところで世話になるってさ。軽く片づけがすんだら、近いうちに出発するみたいで、駅まで見送りに行こうかなって」 「あ、ならわたしも行く! いいでしょ?」 また責任を感じた顔になった幸恵に、雪虎は安心させるように微笑んで頷いた。 「日程決まったら、連絡入れる」 「絶対だからね」 会話と会計が終わるタイミングに合わせて、浩介が立ちあがる。 雪虎が踵を返した時には、 ―――――チリン。 浩介が店のドアを開けていた。 「それじゃ、また」 幸恵たちに挨拶をした雪虎に、浩介が促すように手を伸ばす。 柔らかく背を押して、開いたドアから先に雪虎を外へ出した。 店内からの、ありがとうございました、の唱和に小さく頭を下げ、浩介が後に続く。 しずかにドアが閉ざされた。 お手本のような自然体のエスコートだった。 それでいて、隙が無い。 なんだか雪虎を守るようでもあった。 当たり前のように笑顔で見送ったあとで、ふと我に返った幸恵は深刻な顔で呟く。 「え、あんな、お姫様に対するみたいなエスコート、わたし、彼氏にしてもらったことないんですけど…」 それを聞いた店員が全員、複雑そうな顔で、一瞬、ドアを見つめた。

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