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日誌・85 トラが来た
詰んだ。
鬱蒼と木々生い茂る、広い公園の片隅。
目立たない場所のベンチに座り、やせっぽちの青年は大きなスポーツバッグを腿に乗せ、がくり、俯いていた。
朝からそうして、どのくらい経つだろう。
気付けば、地面に映った自分の影の大きさも向きも変わっている。
土曜日の昼日中。食べ物を片手に歩く人が増えていた。
ただし、木々の間から垣間見えるだけで、青年の周囲に人影はない。
いや、一組。
妙齢の女性が、小さな子の手を引いて歩いていた。母子だろうか。
母親らしき女性は、コンビニの袋らしきものを下げている。
ご飯時だな。
思うなり、青年のすきっ腹が大きな音を立てた。
子供の手を引いていた母親が、一瞬視線を横目に流してくる。
彼は、さらに身を縮めた。
手を引かれた子供さえ、思わずと言ったように振り向いてくる。
いつもなら、さっと逃げるようにその場を立ち去る場面だ。
しかし、立ち上がる気力がない。
代わりに、周囲の様子に気付かないふりで、わざとらしく上着のポケットを探る。
所持金の56円がちゃりんと可愛らしい音を立てた。
(せめて百円…あったなら…っ)
いや、それよりも。
別のポケットを探った彼の手が、鍵束を引っ張り出す。
空しい気分でそれを見つめた。何度見ても―――――彼のものではなかった。
(やっぱり、昨夜、車の鍵落とした時、別の人の間違えて拾ったんだろうな)
なけなしの所持金は、車の中に置きっぱなしだ。
人目に付きやすい駐車場に停めてある。が、鍵がないから取りにも行けない。
もちろん、自分の鍵束を落とした場所なら分かる。
分かるが…問題が多すぎた。
(明るくなったからって、迂闊に戻るわけにも…)
また思考が悩みの中に沈みかける―――――が。
(うん?)
先ほどの子供が、まだ足を止めているのに気付く。
対して、困った母親は、どうにかして進ませようとしているようだ。
「見るんじゃありません」と言いたげ。
そんなに自分のみじめさは目につくのか、とひねた思いが湧く。
顔を伏せたまま、彼が横目にそちらを見遣れば。
「…?」
心底、ぎょっとした。
子供の、真っ直ぐすぎる視線にも臆したが、それ以上に。
その、容姿。
ちょっと、…ぞっとするほどの美童だった。
黒目黒髪は艶やかで、肌は陶器のように滑らか。
全身のパーツひとつひとつが精巧なつくりで、それが、完璧なところに、完璧な形ではめ込まれている。
―――――非常識な端正さ。
一瞬、本当に生きた人間かと疑ってしまう。
(まさか、に、人形…いや違う、瞬きした)
そんな子供が、じっと青年を見つめ、動かないのだ。
猛烈な違和感。
咄嗟に視線を転じ、母親の方を見上げる。とたん。
子供のご機嫌を取ろうとしているようだった笑顔が、彼の視線に強張った。
それは、ほんの一瞬だったけれど。
―――――嫌な方に、ピンときた。
(…あ、これ…)
母子、じゃない。どころか。
(誘拐って、ヤツじゃ…)
スポーツバッグを胸に抱え、青年は咄嗟に立ちあがる。同時に、心が叫んだ。
やめておけ!
自分のことで手一杯の今、余計なことに首を突っ込むな、と。
ああ、けれど、でも。
―――――自分にとって、自分が最低な奴になるのだけは嫌だ。
思うなり、躊躇いなく、腹の底から声を張った。
「おまわりさーん! 来てください、誘拐です、助けてーっ!!!!」
すきっ腹に最後の気合を込め、根性で、生まれて初めて出す大声が青空へ跳ね上がる。
女の反応は早かった。
子供の手を離す。
一目散に、駆け出した。
公園から出る方向へ向かって。
それはよかった。
そんなわけないでしょ、と一言でも言われたら、あ、そうですか、と塩でもかけられた菜っ葉みたいに、簡単に彼は萎れただろうから。
…まあ、よかった、が。
青年の心臓は早鐘のように打っている。
(あ…、あ、どうしよう)
先ほどの声は、きっと、他の誰かの耳にも届いた。つまり。
彼を捜し、追っている相手が、この周辺にいたとしたら。
まばらに近寄ってくる人の気配に、青年は小動物の気分で飛び上がった。
「あの、おにーさん、大丈夫?」
蒼白になった彼の足元で、愛くるしい声がしたのにも、怯える目を向ければ。
先ほどの美童が上目遣いに見上げてきていた。
その漆黒の瞳には、大人顔負けの知性が宿っている。
(…知らない人に迂闊について行くような子じゃない気がする、けど)
混乱する頭は、色々な思いを同時に泡のように浮かべたが、それらすべてをすぐには咀嚼できず、青年は泣き笑いの顔になった。
いや、この場合、相手を気遣うべきは青年の方のはずなのだが。
彼はスポーツバッグを胸に抱いたまま、首を横に振った。
「…大丈夫くない…かも…」
実際、もう本当にぎりぎりだ。
「―――――おい、こっちだ!」
荒い声が聴こえたのに、青年は反射の動きで、すぐそばの繁みの中に飛び込んだ。
スポーツバッグを腹に抱き込むようにして、蹲って丸くなる。
声には、聞き覚えがあった。
どうか、気付かず通り過ぎてくれますように!
ただ、遅れて気付いた。あ。さっきの子供。思うなり。
「いねえ…っ、いや、ガキが一人…!」
複数の足音が交錯する中、青年の身が竦んだ。どうしようもなく震えだす。
きっと今は、何をされても動けない。
石のように固まっていると、とうとう、荒れた男の声が、子供に質問した。
「おいガキんちょ、このへんで貧相な兄ちゃん見なかったか?」
誰かが面倒そうに付け加える。
「たぶんデカい荷物持ってる」
果たして、幼い声は答えた。
「見たよ」
―――――ひぃ。
叫び出しそうな口元を、青年が両手で押さえると同時に。
「あっちに走って行った」
可愛らしい指先が、明後日の方向を指さす。
無垢で素直な反応に、男たちは疑うこともしなかった。
「よし、追え!」
苛立ちは完全に抜けていないものの、意気揚々と幾人かが駆け出す。
が、なぜか何人かがぐずぐずとその場で足踏みしているのに、隠れた青年は不吉な予感を覚える。
まさか、繁みに潜んでいる気配に気付いているのだろうか。
青年が氷でも飲んだ心地で蹲っている耳に、
「なあ、このガキ…」
「…ああ、すげぇ…」
潜めた声はよく聞き取れなかったが、もっと危険な状況になりかけていることに、彼は気付いた。
危険を承知で飛び出すべきか。
青年が腹を決める寸前。
「どこだ、誘拐犯!!!」
さきほどの彼の声など比較にならないほどドスのきいた大きな声が響き、猛烈な勢いでそれが近付いてきた。
「小殿、いるんなら、声出せ、俺を呼べ!! トラが来たぞ!!」
おとなびた態度で状況を見守っていた子供が、
「あ」
いかにも子供らしい声を上げ、大きく伸びをしながらたのしげに両手を振る。
「トラちゃーん、トラちゃーん、ボクここだよーっ!」
子供相手によからぬことを企もうとしていた男たちは、近づいてくる気配の勢いと、大きな声をあげはじめた子供に、さすがに思い付きで行動するのは危険が大きいと判断したか、足早に散って行った。
それを察して、慌てて茂みから顔を出す青年。
「た、助けてくれてありがと、きみ。ぼくはもう、いくね」
「え、待って。ボクもお礼しなきゃ」
何を思ったか、子供が手を伸ばし、青年の肩口を掴む。と同時に。
「小殿!」
公園の石畳、その向こうから凄まじい速さで駆けてくる男が見えた。
帽子を被っていて顔立ちはよく見えないが、凄まじい怒りのオーラを感じる。
子供に掴まれた青年を見るなり。
「ウチの甥っ子から手ぇ放しやがれ!!」
違うんです。
言う間もない。
放たれた拳が、恐ろしい速度で顔に吸い込まれてくるのを、青年は気絶寸前の意識で認識。寸前。
「違うよ、このひとボクを助けてくれたの、恩人なの、トラちゃん!」
必死の子供の声が上がり、刹那。
「…あぁ?」
ぴたり。鼻先で、固い拳が停止した。
「ちっ、先に言えよ、そういうことはよ」
ふわっと持ち上がった前髪の動きを感じながら、青年が、トラちゃんと呼ばれた相手を見上げるなり。
「…はぅっ」
彼は、スポーツバッグを抱えたまま、とうとう気絶した。
相手の顔に見たものは―――――トラウマになりそうな醜悪さだった。
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