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日誌・86 ガリガリくんの事情
× × ×
「なに泣いてんだ」
トラちゃんと呼ばれた男は、八坂雪虎と名乗った。
口調はどこまでもぶっきらぼう。
彼は今は、帽子を目深に被っている。
その横顔は、気後れするほど男前。気絶寸前に見た醜悪な顔立ちは何だったのか。
余裕に満ちた雰囲気をまとった彼は、先ほど青年が座っていたベンチに腰かけ、両足を投げ出し、背もたれにもたれかかっている。
青年の方は、雪虎から少しの間を開けて、ちょこんと座っていた。
二人の間には、雪虎の甥っ子という美童―――――名を、大地―――――がお行儀よく座っている。
「うっ、だってこんなおいしいおにぎりぼくはじめてで…」
青年はぼろぼろ泣きながら、三角おにぎりを頬張った。
うっすら塩味。あれこれ、涙の味かな…。
これは、雪虎が持っていたものだ。
誘拐された甥っ子を捜しに出る前に、見つけた甥っ子が腹を空かせていたらかわいそうだ、と冷ご飯を温めて、いくつか握って持って出たうちの一つと聞いた。
(…オカン…)
幸か不幸か、抱えている荷物のせいで消えない極度の緊張のため、気絶からすぐ目覚めた青年に、雪虎がくれたものだ。
目覚めるなり、目の前で、黙々と握飯を食べている大地を見るなり、腹を鳴らした彼を見かねたのだろう。
「米は冷えてるし、具は梅干し一個、海苔は湿気てるってのに…大げさな」
素っ気ない口調だが、雪虎は穏やかに笑った。
彼との間で、大地がおにぎりにかぶりついている。いい食べっぷりだ。
頬をリスのように膨らませているところへ、ちゃんと噛めよ、とおじさんからの指導が入った。
「日頃ちゃんとした飯食ってんのか、ガリガリくん」
青年は、先ほど、ちゃんと自分の名を名乗った。若林悠太、と。だが雪虎ときたら。
―――――長い、忘れた、もう、ガリガリくんでいいだろ? 俺はトラな。
…名乗り合う意味、とは。
まあ、所詮、長い付き合いになるわけでもないのだ、悠太としても、なんだっていい。
悠太は力なく笑う。
「食べられるものなら食べたいんですが、いかんせんお金もなく…」
「へえ、学生? 社会人? 親は?」
痛いところを突いてくる。
だがもう、今、悠太は、いろんな感覚がマヒしていた。
正直に答える。
「去年、高校卒業しました。親は高校二年の時、事故で揃って天国に。駆け落ち夫婦だったので、親類縁者もなく…バイトで食いつないでたんですけど」
―――――質の悪い先輩に目を付けられ、働き口のことごとくで騒動を起こされ、出ていかざるを得なくなり、挙句。
「苦労して家賃払ってたアパートがいきなり建て替えるとかいう話になって、今、住所不定の車中暮らしだったり…」
口に出して言うと、さすがに遠い目になった。
要するにホームレスである。だが、今の状態は、実のところそれより悪い。
―――――それより悪い状況がある、とは。昨夜まで、悠太は想像もしていなかった。
虚ろな表情の悠太の耳に、ふと、意外な言葉が入ってくる。
「あー、わかる、いきなりアパート追い出されるってキツいよな」
…なんと、同意だ。思わず目を上げれば、雪虎は深く頷いた。
「俺も、つい最近の話なんだが、住んでた場所でボヤ騒ぎがあってさ」
結局出ていかざるを得なくなったんだよな。仕方ないけど、と彼は目を伏せた。
もう言動のすべてにおいて、雪虎は「俺は強い」主張が激しい。
そんな彼の、さらりとした共感が、意外だ。同時に、安心した。
―――――情けない、弱いやつ。
雪虎のようなタイプは、悠太のような人間を、そうして見下すことが多い。
今そんなことを言われたら、悠太の心は粉々になったろう。
だが雪虎は、そうしなかった。
勿論、悠太を積極的に肯定したわけではないが、傷に寄り添い、共感を示してくれた。
だからだろう。
つい、悠太の口が、さらに滑ってしまったのは、
「はは…なのにうっかり、ぼく、昨夜車の鍵落としちゃったんですよ。しかもどさくさ紛れに他人の鍵束拾っちゃったみたいで」
たが悠太は今、追われている。追ってくる人間は、どう見ても危険だ。
他人のものとはっきりわかるものを持っていても、警察に届けようもない。
表に出るなり、悠太程度、簡単に取り囲まれ、どこへ連れていかれるかもわからない。
隠れているのが一番だ。だがいつまで。
…先が、見えなかった。
ひとつ、おにぎりを食べ終わった悠太は、雪虎を横目に見る。
彼は、甥っ子の頬についた米粒を取ってやっていた。
そんな態度一つとっても、彼には、不思議な面倒見の良さがある。
これも縁だ。
悠太は思いついて、雪虎に鍵束を差し出した。
彼なら、きちんと最後まで仕舞いをつけてくれそうな気がする。
「もし面倒でなかったら、これ、交番に届けてくれませんか」
雪虎は、手を伸ばし、即答。
「いいぞ、預かるわ」
悠太はホッとする。イイ人だ。
口先だけでない、信じられる人の目をしていた。
差し出された掌の上に、鍵束を置く。とたん、
「…これか?」
雪虎の眉がしかめられた。
「あ、はい。なにか?」
「いや、気のせいならいいんだけどよ、これ…銀行の貸金庫のキーが混ざってないか」
「へ?」
揃って無言になり、鍵束を見つめる二人。二人を見上げ、大地がこてん、と首を傾げる。
雪虎が咳払いした。
「…まあ、勘違いの可能性が高いか」
「驚かさないでくださいよ」
勘違いという言葉できれいにおさめて、二人はへらりと笑う。
「おにぎり、おいしかったです。ありがとうございました。ぼく今、無一文で昨夜から何も食べてなくって」
「何言ってんだ」
黙々と握り飯を頬張っている大地の頭越しに、雪虎はすっと悠太の膝の上のスポーツバッグに手を伸ばした。
「そのデカいの、ガリガリくんの荷物だろ。もう一度見てみろよ。中の意外なところに意外なものが入ってるもんだぞ」
あろうことか、その指先が、無造作に、バッグのチャックを開ける。
―――――ジャッ。
半端に開いたそこから、…見えた、ものに。
悠太は蒼白になる。
雪虎の表情は固まった。
二人の不自然な沈黙に、悠太を振り向く気配を見せた大地が動く寸前。
―――――ジャッ。
素早く雪虎はバッグのチャックをしめた。
何も見なかった。
そんな顔で、大地の肩を抱え、立ち上がろうとする。寸前。
がしっ。
悠太はスポーツバッグを膝に置いたまま、雪虎の腕に両手でしがみついた。大地越しに。
「…なんだよ?」
この場合、見なかったことにしてもらえるだけでも、ありがたい話かもしれない。
立ち上がり損ねた雪虎は、迷惑そうに悠太を見てくる。
確かに、迷惑だ。悠太とて、誰かに迷惑をかけたくなどない。
けれどもう、一人ではどうしようもなかった。
なにより。
雪虎の面倒見の良さは、妙な頼りがいを悠太に感じさせる。
迷惑をかけるのは申し訳ない、申し訳ない、―――――が。
もう笑うしかないから笑って、それでも目だけは必死、という凄絶な表情で、悠太は心の底から訴えた。
「た、助けて、ください…!」
雪虎はさらに、迷惑そうに、して。ちらり、大地を一瞥。
よく状況が分かっていない子供は下手なことも言えず、おろおろしている。
ただ食事のために、口だけはよく動いていた。次いで。
―――――雪虎は、頭上に広がる大空を見上げた。
しばしの沈黙の、のち。
深く、長く、…嘆息。
「助けてって、さあ…ソレ、ガリガリくんのじゃないのか」
ソレ、と雪虎が視線を向けた先に会ったのは、スポーツバッグ。
おそらく、彼が言いたいのは中身のことだ。
この、中には。
―――――札束が詰まっていた。
キャッシュレス決済が主流になっている昨今において。
本物の、札束の山である。
「さっき言ったように、ぼくは無一文です。これは、他人様のですぅ…」
悠太はほとんど泣きかけだ。
他人の物を、使えるはずがない。
ただ、問題なのは。
「だったら、返すべきだろ。行きにくいのか? 一緒に行ってやろうか?」
雪虎は、初対面の悠太にすらこうなのだ。
他にも同じようにするのだろう。
口先だけでなく本当にそうしてくれるのだろうな、と感じるところがすごい。
悠太は正直に答えた。
「…分からないんです」
「あ?」
「誰のか分からないのが、問題なんです…!」
悠太の力説に、雪虎は唖然。
「いや待て。誰が落としたか分からないのか? まさか、誰もいないところに落ちてたのか? そんなのが?」
今更になって、雪虎を巻き込んでもいいのだろうかという罪悪感が湧いてくる。
「…これを渡してきたのは、ぼくの先輩です」
でももう、思い切ったのだ。後戻りはできない。
言葉が頭上で行き交うたび、お利口に座ったままの大地は、雪虎と悠太を交互に見遣る。
「ふん、落とし物じゃないってことか。…だよな。だったら」
先輩とやらに返しに行こう。
雪虎が言い出す前に、悠太は台詞途中で割り込んだ。
「けど、これは絶対、彼のじゃないんです…っ」
そう、問題はそこなのだ。
「? ? ? ? ? 渡してきたのは先輩なのに、ソレはその先輩のじゃない…?」
雪虎は眉をひそめた。そして、一言。
「悪いな、ややこしい」
すぐには理解できないと言った風情。咄嗟に、悠太。
「見捨てないでください!」
雪虎は気負いなく即答。
「分かった」
―――――男前すぎる。
被る責任が重いと感じられる言葉が、そんなのどうでもいいとばかりにさらりと放たれたことに、悠太は、逆に絶句した。
少なくとも、悠太には絶対言えない。
素直に思った。
(格好いい…)
雪虎はやりにくそうに頭を掻く。
「だからちょっと落ち着け」
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