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日誌・87 レッツ冒険
頭痛でも感じた態度で顔をしかめたまま、雪虎は言葉を続けた。
「俺の頭でもわかるように説明しろ」
どうやら、理解しようとする姿勢はあるらしい。
悠太がやせ細ったようなため息を吐きだした時。
「どこなの、大地! トラちゃんっ!?」
必死な、女性の声が、平和な公園の入り口から響いた。
たちまち、大地の顔に、また笑顔が花開く。
「お母さんだっ」
「おう、来たな」
足をぱたぱたさせる大地が、うずうずと雪虎を見上げた。
駆け出していいか、と許可をもらいたがっている態度だ。だが。
待て、とばかりに雪虎は甥っ子の頭に手を乗せた。スマホを取り出す。
画面を器用に片手で操作し、耳に当てた。
「姫さん、奥だ、奥のベンチでいる。小殿は無事」
相手からの返事は、悠太には聴こえない。雪虎はすぐに通話を切った。
―――――その女性の姿がベンチから見えたのは、直後だ。
「だいち!」
表情に浮かぶのは、母の情に満ちた心配と、そして、…心の底からの安堵。
慌てふためき、駆け寄ってくるその姿に、悠太は知らず、ぽかんと口を開いた。
(あ…おかあさん、―――――なる、ほど)
一目で納得できてしまった。
駆け寄ってくる彼女が、大地、という美童の母親であることが。感嘆すると同時に、全力で納得。
現れたのは、怜悧で知的な美女だ。目鼻立ちのはっきりした、切れ味鋭い美貌。
着ているスーツはとことん地味だが、それでも生来の華やかさは隠しきれていない。
おそらく冷静なときならば、ひとつの隙も無い女性だろう。
ただ今ばかりは、母親の顔をしている。
「お母さん!」
彼女の姿が見えるなり、雪虎は甥っ子から手を離した。
ベンチから飛び降りようとした大地を手助けしてやった雪虎は、二人を見守る姿勢で背もたれにもたれかかる。
抱き合う母子の姿に、やれやれ、と言いたげな疲れた表情だが、満足そうだ。
大地は、母親に何を言ったのだろうか。すぐ、彼女は、大地と手をつなぎ、ベンチの方へ近寄ってきた。
凛とした態度で、にこり、悠太に微笑み、立ち止まるなり、
「大地の母の、さやかと申します。この度は息子を助けてくださったとか。ありがとうございます」
深く、丁寧に、悠太へ頭を下げる。
びっくりするくらい品があり、見惚れるほど優雅だ。
対して、悠太は大慌てである。
「その、ぼくは若林悠太って言います…あの! あ、頭をあげてください」
スポーツバッグを抱えたまま立ち上がり、悠太は彼女以上に深く頭を下げた。
「こちらこそ大地君に窮地を助けてもらったので、…その。お礼なんて、逆に心苦しい、です」
へこへこ繰り返し悠太が頭を下げる間に、彼女は顔を上げる。
「まあ、そんな」
「いえ本当に、これくらいで。大地君」
必死に頭を横に振った。
話を逸らすべく、悠太は膝を落とし、見上げてきていた大地と視線の高さを合わせる。
「もう、知らない人について行っちゃダメだぞ」
そんな子には見えないが、今回は何か手違いがあったに違いない。思いつつ言えば、
「知らない人?」
大地はきょとんと首を傾げる。
「さっきの人なら、家政婦さんだよ」
「……………」
なにそれ、怖い。
子供に向ける用の笑顔を浮かべたまま固まった悠太の耳に、舌打ちが聴こえた。雪虎だ。
「面接時はまともだったらしいんだよ」
もしかして、悠太に対して、その家政婦さんとやらのことを説明してくれているのだろうか。
本音を言っていいなら、あまり聞きたくない。
そんなことは言えず、悠太は黙り込んだ。
その態度を何と思ったか、念押しするようにさやかに視線を投げる雪虎。
「そうだろ、お姫さん」
「もう子供じゃないんだから、姫さんはやめてってば」
言い疲れたように前置きし、真剣な言葉を続ける。
「そりゃ、何回も同じ結果になるんだもの。さすがに、わたしも面接に同席したわよ」
何回も同じこと…まさか誘拐のことを言っているのだろうか。どういう状況だ。
さやかは自由な方の手を腰に当て、唇を尖らせた。
大地や悠太に向ける表情とは違う、子供っぽい反応だ。
彼女の態度に、なんとなく察する悠太。
あ、この二人、兄妹なのかな。
「その時は、普通だったわ。本当に、ごく真っ当な経歴、真っ当な人間。なのに」
さやかは言葉を切って、首を横に振った。
―――――おかしくなる、ということか。
雪虎は眉間にしわを寄せ、唸る。
「あの一族の影響ってのは、半端ないな…こんな年端もいかないうちからこれか」
よく分かっていない顔で雪虎を見上げる大地に、困ったような、力づけるような笑みを雪虎は向けた。
「ちびっ子に言いたくないが、早く強くなれよ。妹、守ってやれるくらいに」
真剣に頷く大地を尻目に、他人事ながら、悠太はぞっとなる。
「え、妹…、が、いるんですか、大地君」
まさか、こんな常識はずれがもう一人? しかも、女の子。
そんなのちゃんと、成人できるんですか。
心の声が届いたか、難しい顔になる雪虎。
「まあなんとかなるだろ、ってか、するしかない」
断言し、雪虎はさやかを見上げる。
「御曹司も昔、色々あったみたいじゃないか。そういや、御曹司は?」
誰だろう。
悠太は首を傾げたが、
「騒動の犯人に、最終通告をしに行ってるわ。だからお迎えは私」
その言葉に、ピンとくる。なるほど、御曹司とは、大地の父親のことか。
大地がさやか似と思った悠太は、こんな美女を手に入れたなんてどんな人かな、とちょっと好奇心をそそられるにとどまった。逆に。
夫を思い出してさらに頭が痛くなったさやかは、深いため息をつく。
「…おかしくならない人は、ならないのに。もうっ、この違いってなんなのかしら」
「ああ、犬みたいな?」
犬。
それは誰か個人のことを指しているのだろうか。…そうなら、あまりにひどい。
だが雪虎に悪意はないのだろう。口調が軽い。
だから、うっかり聞き逃しそうになるが。
(人聞きが悪いです、トラさん)
指摘しそうになり、寸前、きゅっと口を閉ざす悠太。
同じ考えを持ったか、さやかは呆れ顔だ。
「その呼び方、知らない人が聞いたらどうかと思うわよ。せめて鳥って呼んであげて」
それは何がどう違うのでしょうか。
心の中で思いつつ、じっとしていると。
ふ、と何かに気付いた表情で、さやかは悠太を見下ろした。珍しモノでも見るように、まじまじ見つめてくる。
「あ、あの、…何か?」
もじもじ落ち着かなげな悠太の態度に構わず、
「ねえ、トラちゃん、この子」
さやかは雪虎を見た。
言いたいところを察したらしい雪虎が、頷く。
「ん、気付いたか」
何に?
知らないところで通じ合った二人の様子に、きょとんとした悠太を見下ろし、
「なあ、ガリガリくん」
にやにやしながら呼ばれるのに、悠太は生真面目に返事をした。
「はいっ、なんでしょう、トラさん」
当たり前に『ガリガリくん』を自分のことと認識し、反応する悠太へ気の毒そうな視線を向けるさやか。彼女を無視して、雪虎。
「ウチの小殿を見て、思うところを正直に言ってみな」
妙な質問だった。首を傾げながら悠太は答える。
「可愛い子供ですね」
誰がどう見ても、そう言うだろう。
それとも、…違うのだろうか? はにかんだ笑顔を浮かべる大地。うん、可愛い。
「だろ。子供だ」
「はい、子供ですね?」
なんだろうか、この念押しは。
雪虎は真顔で頷き、さやかを見上げる。
「さっきからずっと一緒にいるけど、こうだ。なぁ、ガリガリくんなら大丈夫そうじゃないか?」
大丈夫って何がだろう。ついていけない悠太を放って、話は進む。さやかは明るく言い放った。
「トラちゃんが大丈夫って言うなら、わたしは構わないわ」
さやかには、何の迷いもないようだった。
「おいおい」
とたん、胡乱な顔になる雪虎。
「それでいいのか。少しは考えろ」
「トラちゃんはいつだって正しかった」
「間違ったことだって多いだろう、よく思い出せ」
「トラちゃんこそ、よく思い出して。間違いすら、正しいことになったじゃないの」
さやかの、盲目的ともいえる信頼に、雪虎は顔をしかめた。
置いてけぼりの悠太が困ったように見上げていると、
「大河さんだってOKするわよ。…ねえ、若林さん?」
けろりと雪虎に言い放ち、悠太に視線を向けたさやかは、おとなびた冷静な口調と優雅な態度で告げた。
「家事の経験はございます? 家政婦として働いた経験は? いえ、初心者でも結構ですのよ。もしお手隙なら、我が家で家事のお手伝いしてくださると助かるのですけど」
悠太は一瞬、ぽかん。すぐ我に返る。
「あ、でもぼく今…、住所不定で」
身を固くしながら、正直に告げた。
これほど品のある女性だ、嫌悪や見下す目を向けられると思ったから、知らず、緊張してしまう。だが。
「あらおうちがないの? ホームレス?」
ちょうどいいわ、とばかりにさやかは輝くような笑顔を浮かべた。
「なら住み込みでいかが? 我が家は広いので、空き部屋ならたくさんございましてよ。安心して、他にも住み込みの方はいらっしゃいますから」
そんなに簡単に信用していいのか。呆気にとられたが。
…いや、おそらく。
彼女は、信用などしていない。初対面の、ホームレスの男など。当たり前の話だ。
ちょっと試験をして、だめなら、あっさり、悠太などは切り捨てられるだろう。
―――――その、ちょっと試験をする程度の余裕を、さやかはもっているということだ。
もし家に上げたとしても、監視する手段だって、持っているのだろう。
彼女は雪虎の妹のようだが、おそらく。
雪虎と違って、相当に、―――――冷酷非情。
悠太はゴクリ、つばを飲み込む。
緊張で全身が強張った。
悠太は雪虎を振り向きかけ、頼ってどうする、とどうにか踏ん張った。
「その…それに、家事なんてろくにしたことなくって」
折角の機会だが、断った方が利口な気がする。
正直、さやかという女性は、怖い。
だが、横から雪虎が口を挟んだ。
「ばかだな、そこはまず得意ですって売り込めよ。嘘つけねえのはまあ、分かった」
台詞の内容は、さやかの援護射撃のようだが、雪虎のことだ、悠太が困惑していることに気付いているはず。
縋るように見上げれば、雪虎は励ますように笑った。
「家事なんて、慣れだ、慣れ。それに、親が高2で亡くなったんなら、一人暮らしの期間もそれなりだろ」
悠太が高校卒業したのは去年。
先日まではアパート暮らしだったわけで、自炊も掃除洗濯もしていた。きりつめた毎日だったが。
「レシピ通りにやれば、あらかた、メシも作れるタイプじゃねえの?」
「はあ、まあ…」
レシピがあって、失敗する方が不思議とすら悠太は思う。雪虎は嬉しそうだ。
「よしよし、ちなみに目の前の美人は失敗する」
「トラちゃん、余計なことよ」
さやかはふくれっ面で雪虎を睨んだ。が、怖くない。
というか、先ほどまでうっすらと漂わせていた冷たい空気が消えた。ようやく悠太は息がつける。
いまのさやかは、どちらかと言えば甘えが入っていて可愛らしかった。
雪虎は不敵に笑う。
「こりゃいい感じだな。そう思わないか? けどまあ、姫さん、考える時間くらいはやりな」
「…分かったわよ」
その返事に、悠太は、自分を絡め捕ろうとしている何かが引っ込んだことを確信し、身体からこわばりを抜いた。
「それからな、ガリガリくん」
にこにこしている甥っ子の笑顔に目を細め、雪虎はその頭に手を伸ばす。
「そんなに後ろ向きになるな。お前は、なかなかいいもん持ってるぞ」
いままでの流れのどこを見て、雪虎はそんなことを言うのだろうか。
俯いた悠太を横目に、甥っ子の頭を無造作に撫で、雪虎は立ち上がった。
「自分だって追い詰められてるのに、子供の危険を見過ごせなかったってのもいい」
さやかを見遣り、雪虎は片手を挙げる。
「姫さんは、大地を連れて家に戻れ」
「トラちゃんは?」
「俺は冒険だ。ガリガリくんはついてきな」
にやりと笑い、雪虎は踵を返した。
悠太は慌てて立ち上がり、さやかに頭を下げ、大地に手をふりながら、雪虎に続く。
「あの、どこへ」
「新しい職場へ行くにしたって、今の面倒を片付けなきゃどうしようもないだろ」
その通りだ。いっきに、気が重くなる悠太。
「安心しろ」
雪虎は早足に進みながら言った。
「助けてやるよ。まずは、―――――情報だ」
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