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日誌・89 伝承の外

雪虎がこちらに出てきている。 それは、遼には意外な話だった。なにせ。 雪虎は時折、地元にさやかたちを招くことはあるが、頑として地元から出ない男である。例外は、仕事の時や、よっぽどの事情があった時だけだ。 生来出不精であるようだが、それは、彼の体質にも原因がある。 雪虎の体質。 ―――――それは、はじめて彼を見た相手の目には、その容姿が極端に醜悪に映るという現象のことだ。 遼も、最初雪虎を見た時は驚いた。その、あまりの醜悪さに。だが。 再び見た時には、もっと驚いた。 最初見た醜悪さなど冗談だったかの様に失せており、さやかの兄と言われても簡単に納得がいく男前がそこにいたからだ。 雪虎と初めて会った時のことは、忘れられない。なにせ。 その時、病室の暗がりの中で、遼は妻もろとも、御子柴の若夫婦から処分を言い渡されたからだ。 ―――――骨も残さず消えてもらう。 顔色一つ変えず、大河は言い放った。 あまりに整いすぎた顔立ちは、室内の空気すら冷たく凍えさせるようだった。 御子柴大河ならばそう言うだろう。遼はもちろん、理解していた。 なにせ遼は。 重篤な病を患っていた妻の手術費を工面するために、御子柴の金を掻っ攫ったからだ。 自身でやっておいて、なんだが。 まさか、下っ端社員のそんな行動が成功するとは、遼は思ってもみなかった。 死に物狂いだったとはいえ、金は、…手に入って、しまった。 そうして、…慎重に慎重を重ね、安全を考慮し、満を持して行われた手術は成功した。だが。 ―――――御子柴が、黙っているはずはなかった。それでも。 実行犯は、遼一人である。 いや、何人かの仲間はいたが、金が手に入った時点で、きれいに切れた。 …せっかく助かった、妻の命までは見逃してもらえるだろう。 ―――――そう、思っていたのに。 そこで、心底、遼は自身の愚かさに気付いた。 ―――――御子柴一族に、そんな甘さがあるわけがない。 彼らは、待っていたのだ。手術が成功する瞬間を。 それを、すべては無駄だったのだとあざ笑うために。 遼はわざと、…見逃された。 絶望させるために。 正直言って、分からない。 御子柴側は、遼の行動を、いつから、どの程度承知だったのか。 今から思えば、すべて彼らの掌の上だった気がする。 御子柴の金に関わったのは、遼一人ではない。他にもいる。 彼らがその金をどうしたかは知らないが、大河とさやかが興味を持って追ったのは、そのうちの一人だったと聞いた。 が、詳細までは知らない。ただ。 …その人物は、ろくな最期を迎えなかったろう。 いずれにせよ。 何も知らない妻だけは、守らなくてはならない。 遼は、妻を庇って、妻は遼を庇って、抱き合ったまま、思考をフル回転させる。 機会はまだある。そう、遼は考えた。 ぎりぎりまで、彼女を守ることだけは放り出してはいけない。 出口や窓をはじめ、周囲を固める黒服たちに、鳥飼夫婦を連れて行け、と大河は指示。 もう興味すらなさそうに、さやかと共に踵を返そうとした、そのとき。 ―――――メンツを保つ、とか。カッカする以前にさ。 場違いな、気楽な声が割って入った。大河たちを引き留めるように。 ―――――こいつら、いいと思わないか。 遼は内心、唖然となった。 この、冷酷な夫婦に、こんな口の利き方ができる人物が存在するとは。 それが八坂雪虎。 あまりの醜悪さに、病室に入ってきて以降、目も向けなかった相手だ。 意識から追い出していたと言っていい。なのに。 彼が口を開くだけで、夫婦がまとう厳格な冬に似た気配が霧散した。 雪虎を振り向いたさやかは、いっきに、子供めいた顔になる。 ―――――また、悪い癖が出たの? 続いて、大河が呻いた。 ―――――犬猫みたいに人間拾う癖はどうかと思いますが。 ―――――お前ら俺を何だと…そういやアンタは犬派? 猫派? 何を思いついたか、雪虎はふっと遼と目を合わせ、そんなことを尋ねてきた。 馴れ馴れしいというのとは違うが、雪虎は、こう、ふっと気紛れな猫のように、自然にするっと他人の懐に入ってくるのが得意だ。 どういう答えを望んでのことなのか。 だがこういう時、考えすぎては裏目に出そうな気がした。 博打を打つ気分で、どうにでもなれ、と遼は素直に答える。 ―――――犬派、ですか。 果たして、雪虎はだめだな、と首を横に振った。 ―――――犬派かよ、鳥飼のくせに! 以来、彼は遼を犬呼ばわりするようになった。 犬派の鳥野郎というわけだ。略しすぎな気もするが、もう雪虎はそれでいい気がする。 他が呼べば瞬殺だが。 その上で改めて、雪虎は大河たちを振り向いた。 ―――――よく見ろよ、この夫婦。 なぜか雪虎は、視線を転じ、頼もしそうに嬉しそうに、鳥飼夫婦を見つめた。 ―――――御子柴に狂わされてないぞ。 大河とさやかは、その言葉に我に返ったように、遼たちを見下ろす。はじめて彼らを見たように瞬きした。 このときの遼には、雪虎が一体何を言っているのか理解できなかったが。 のちに、それがどれだけ重要なことだったか、身に染みて知ることになる。 雪虎はさらに言葉を重ねた。 ―――――俺らに必要なのは、御子柴に狂わず、冷静にコトを処理できる有能な人間だ。コイツは条件にピッタリだろ。手術台は手付金ってことにしろよ。なあ。 この言葉で、遼は息を繋いだ。同時に、首輪でつながれた。 とはいえ、遼は運が良かったのだと思う。 通常、地元から出ない雪虎は御子柴本家へ訪れることなど滅多にない。というのに。 この日は本家を訪れており、珍しく御子柴の若夫婦と同道していた。 以来、顔を合わせる機会があれば「奥さん元気か?」とか「働きすぎるなよ」とか言って、たまに食事を振る舞ってくれたりする。 御子柴を守る黒服の部署へ配属された者は、御子柴のプライベート空間に足を踏み入れることが多いから、そういう機会は多い。 それにしたって、雪虎は面倒見のいい男だった。 数年前子供が生まれた時など、お祝いが送られてきた。 雪虎という男は、いい加減なのか、マメなのか、よく分からない。 ただ、妙に世話になっている心地が強いから、もし彼が本家に来ているのなら。 挨拶をしなければ、と思う。が、遼は口には出さない。 雪虎に他の人間がかかわることを、御子柴の若夫婦はよく思っていないことを知っていたからだ。代わりに、 「なるほど、だからですか」 別のことを口にする。 「昨夜、お二人が定時で帰られた理由が分かりました。…八坂さんのご飯ですね」 ワーカホリック気味の、大河・さやか夫妻は、本当によく働く。 定時で帰るなど、年に何回あるだろうか。 それが、昨夜は揃って定時上がりで、一緒に帰ったのだ。 社員たちがどれだけざわついたことか。 きっとデートだ、二人子供ができても、やっぱり、夫婦であると同時に恋人同士なのね、と女性社員たちは黄色い声を上げていたが。 (間違いなく、原因は) ―――――美味しい雪虎のご飯だろう。 「ちゃんと飯を食え」というのが口癖のような彼の手によって、遼は何度かご相伴に預かったことがある。その美味さは舌と胃袋に刻まれていた。 一拍の沈黙ののち、大河は独り言のように言う。 「今日は帰れないだろう」 感情の覗かない物言いだったが、微妙に悔しそうな台詞である。 つまり今夜は雪虎のご飯が食べられない、ということだ。 仕方がない。やるべきことは、実に多かった。 (今日中にぜんぶ、始末がつくかどうか) 「今夜で、例の件、片が付きそうですからね」 直近の問題について言えば、 「昨夜のトラブルの詳細は、調べがついたのか」 気を取り直した態度で、大河。 遼ははきはき答える。 「ええ。どうも、捨て駒目的で巻き込んだ下っ端が、取引の金を持ち逃げしたようですね」 だがその捨て駒くん、調べれば調べるだけ、気の毒になった。典型的な巻き込まれ型だ。 一瞬、興味を抱いたように、大河は目を上げた。 「なかなか肝が据わったヤツだな」 「と言いますか、いきなり明かりが消えて、内輪もめが起きたそうで」 誰かが仕組んだことなのか、偶然かそれは分からない。 「巻き込まれた下っ端くんが、暴力の気配に怯えて逃げた。それが真相みたいですよ。連中、血相変えて捜してますね。その子の名前は確か…若木、いえ、若林、でしたね」 遼はエンジンをかける。 それきり、その会話から興味を失った大河の様子を確認し、車を発進させた。 「ところで、八坂さんがこちらに見えられているそうですが、先日、お子さんを連れてご家族で里帰りなさったのでは」 確か、雪虎を怒らせてしまった、とかさやかが悪びれなく言っていたのを聞いた覚えがある。 ―――――だからちょっと、菓子折り持ってお詫びしてくるわ。 常の優雅さはどこへやら、ぺろりと舌を出し、悪戯気な表情で言っていた。 ウキウキしているのは、もう、口調だけで分かった。 結婚して、子供を産んでも、さやかがお兄ちゃん大好きなのはよく知っている。 それどころか。 妊娠・出産時は、実家に里帰りする、と告げ、赤ん坊の面倒を雪虎にみてもらっていた。 無論、任せきりではなく、雪虎とさやか二人で戦争に立ち向かうかのように育児に追われていたとか。 さやかの不在中、増えた仕事の処理に追われ、関われなかった大河は、至極残念そうだったが、大変だったけど楽しかったと笑うさやかは、少女のように愛らしかった。 「里帰りをしてまだ間もないのに、八坂さんがこちらに来られるとは」 今までの雪虎からは考えられない行動だ。 わざわざ地元から出てくるとは、何かあったのだろうか。 「調べたいことがあってきたと言っていた」 「…調べもの?」 また意外な話だった。どちらかと言えば雪虎は、拳で語る系の人物だ。 調べ物、など、らしくない。 「君だから言うが」 大河は淡々と言葉を続けた。 「義兄に聞かれた。御子柴で、伝承の外に出た者はいるか、と」 「伝承の外…ですか」 遼は眉をひそめる。つまり。 御子柴が影のように引きずる、長い過去の中で。 御子柴家の者が有する、呪いのような魅了の力を無効にした一族の者がいないか、と雪虎は尋ねてきたのか。だが。 なんのために? 「知っているだろうが、義兄の体質も、伝承の内のものだ」 はじめて見た瞬間、誰もが雪虎に見て取る、あの醜悪さ。 あれも旧家の伝承の影響を受けたものだと遼に教えたのは、さやかだった。 「それを解けるものなら解いてみたい、そのための調査だそうだ」 「可能なのですか?」 聞きながら、遼はなんとなく納得できない。喉に何か詰まったような感じを覚える。 なにせ、雪虎は。 どうでもいい、と言いたげだったからだ。 自身の体質を、そういうもの、と既に受け入れてしまっているような。 ―――――今になって、何があって、気持ちが変わったのか。 「少なくとも、御子柴にそんな話は残っていない。だが、もし」 物憂い眼差しを、大河は明るい外へ投げた。 「…伝承の外へ、出られるのなら」 何かを言いさし、彼は口を閉ざす。これでもう、会話は終わり、ということだろう。 他愛ない雑談は、大河の嫌うところだ。 遼も口を閉ざし。 次の交差点で、車のハンドルを切った。

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