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日誌・90 10号(後輩)
× × ×
あとから思えば、この時の悠太は必死だった。
一人の時はあれほど表へ出るのを怯えていたのに、雪虎が一緒だと不思議と安心感しかわかないのも良くなかった。
気付けば、公園を出て、もうずいぶん経つ。
下手をすれば、今この時、追手に見つかっているかもしれない。
青くなりながらも、どういうわけか、悠太の中には、雪虎から離れるという選択肢はなかった。このヒトと一緒なら何とかなる。
根拠もないのに、確信があった。
ついていくのに息切れしている悠太をよそに、前を歩く雪虎は今まで頑張って状況を説明した悠太の台詞を要約する。
「要するに、ガリガリくんは、高校時代に悪い先輩に目をつけられて」
先を行く雪虎の歩幅は広く、しかも彼は歩くのが早かった。
つまり、雪虎は足が長く、筋肉もしっかりついた、逞しい男ということだ。
「仕事の邪魔をされ、辞めざるを得なくなって、家もなくなったがために、その先輩が紹介する仕事について行った、と」
雪虎の背中を見上げ、悠太は頷く。
生活というか、一日一日生きるのに必死だった悠太とて、根性はある方と思う。
とはいえ、いかんせん、体力がなかった。
家賃や電気代、税金など、その他諸々の生活費を支払うので精一杯―――――お腹いっぱいのご飯など、夢でしかない。
「けどその仕事の時間が夜中で? 周りには外国人の集団とか、拘束されてる女の子がいて? 金は持ってきたから担保になった妹を返してほしい、とか言ってやってきた相手が騒ぎ出したと思ったら、いきなりその変な取引現場で明かりが消えて、殴り合いが始まった、と」
そのどさくさに、恐怖が最高潮に達していた悠太は預けられていた金を持って逃げ出した。
何度も頷く悠太の視線の先で、雪虎は首をひねる。
「やっぱり全体像がよく分からないけど、一つだけ理解した」
一旦言葉を切ったあと、雪虎低い声で言った。
「正直言って悪いが、お前は捨て駒目的の道具扱いで巻き込まれたな、ガリガリくん。身内も居なくて…いなくなっても誰も探さない人間ってのは、捨てやすい」
…そんなのは、誰より、悠太が一番よく知っている。
それでも、働かなければ、誰も金などくれない。金がなければ、生きていけない。
言うとおりに働けば、金をくれる、先輩はそう言ったのだ。
たとえそれが転落の一歩だと知っていても、悠太はばかみたいに頷いて、進むしかなかった。
「おい、泣くなよ」
「泣きません」
困ったように言った雪虎に、弱い声で答える。
雪虎は、やりにくそうに頭を掻いた。
「まあなんだ、お先真っ暗ってわけでもない。俺は間に合ったんだし。一緒に助かろうぜ」
…他人事として見ていない雪虎の言葉に、本人がどこまで意識しているのか知らないが、悠太はひどく助けられた心地になる。
「まずは、情報だ。さっきも言った通りな」
「じょ、情報って、トラさん」
悠太は周囲の雰囲気が変わったことに気付いて、あたりを見渡した。
「待ってください、こ、ここ、繁華街って言うか…っ」
今、二人が歩いているのは、夜の街だ。道一本挟んでラブホテルなども林立している、子供一人では気軽に出入りできない場所。
店に入るには、金も必要だ、悠太などは足を踏み入れたこともない。
まだ明るいから、営業している店が少ないのは救いだが、
(うわぁ、あそこってソープ…ってぇ!)
スポーツバッグを抱えて雪虎に続く悠太は、目の前を行く長身がいきなり路地裏へ入ったのに、内心悲鳴を上げながら追いかけた。
(み、見失うぅ…)
その時になって、はじめて雪虎が悠太を一瞥する。
「ちゃんとついてきてんな。息切れしてるのはなんでだ? …ま、上々だ」
息一つ乱していない雪虎は、ようやく立ち止まった。
休憩を挟んでくれるのかと思いきや、彼は不思議なことを言い出す。
「ガリガリくんが持ってる気運みたいなのを、これからちょっと試してみようぜ?」
雪虎に不思議な頼りがいを感じているのが悠太なら。
悠太に面白い資質があることを感じているのが雪虎だ。
―――――それを今、試そうと思う。
「えっと、き、気運、ですか」
「おう、ガリガリくんが持つソレが本物なら」
戸惑う悠太に、雪虎は不敵に告げた。
「俺が捜してるヤツは、絶対、ここにいる」
ナニソレ? 悠太が聞く間もない。
「じゃ、はじめっか」
悪企みをするような笑みが、雪虎の顔に閃くや否や。
「あらよっと」
目の前にあったドアを、雪虎は足で勢い良く蹴りつけた。
―――――ドカッ、ドカドカッ!!
(エ―――――――――っっ!!!)
あまりにあまりな行動に、ぽっかーん、と呆気にとられた悠太の前で、雪虎は少し上を向いて不敵に笑う。
「おい、そっちから映像は見えてんだろうが。声も聞こえるか? 遅いと壊すぞ、とっとと開 け ろ」
その声に応じるかのように、そう長く蹴り続けることなく。
がちゃがちゃ、と慌てた勢いで鍵が開く音がした。雪虎が足を引っ込める。
その時になって、悠太は気付いた。
(あれ、そういえばこの裏口って、さっき表から見えたあの看板の店につながるんじゃ…)
あの店。
確か、あれは。
―――――ホストクラブ。
「ト、トラ先輩? え、本物ですかっ」
現れたのは、ビン底眼鏡の男。
体格のいい上半身には、アニメキャラのプリントTシャツ。
足元は、擦り切れたジーンズの男。
少し伸びた髪を、適当に首の後ろでくくっている。
背ばかり高く、ぱっとしない、どころか、力いっぱいダサい。
ここは、位置的に、ホストクラブの裏口のような気がするのだけど、と悠太は一瞬、表通りに戻って確かめたい衝動に駆られた。
彼を見て、雪虎は目を細めた。鼻を鳴らす。
「久しぶりだな、10号」
今度は、人間を番号呼ばわりである。
雪虎の傍若無人さは、悠太には少し、ついて行けないところがあった。聞きつつ、若干、引いている。
「お、お久しぶりです! すみません、これ、抜き打ち検査ですかっ」
ビン底眼鏡の男は、緊張を隠さず固唾を呑んだ。
「なんのだよ! もう学生じゃねえだろてめえ。にしても、相変わらずだな、店の中でもそんなだらしない格好してんのか」
「違います! きちんとしてます! これは戦闘服じゃなくって寝間着です」
「寝間着は寝間着にしろ、Tシャツで寝るな!」
「すみません!」
なんだか、田舎から不意打ちで出てきたお母さんを前にした不肖の息子である。
ビン底眼鏡の男は身を小さくしながら、
「あ、どうぞ中へ。でもどうして、ここに? ホストクラブですよ?」
当然のように中へ入る雪虎に続いて、悠太も中へ。
というか、雪虎が悠太の首根っこを引っ掴み、中に入った。その背後で、
―――――ガチッ。ガチャガチャガチャ。
取りつけられた何重もの鍵が物々しい音を立て閉じられるのに、悠太は青くなって振り向いた。
視線に気づいたビン底眼鏡の男がにこやかに、
「これ? …こんな商売してると色々あって」
「言わんでいい。知りたいのはひとつだ」
雪虎は怖い笑い方をした。
「多分、ここにいるだろう? …情報屋が」
含みのある声は低い。
ビン底眼鏡の若い男は、困った風に笑って、納得のため息。
「誰にも言うなって言われてるんですが」
そのまま、頭上を指さす。雪虎は鼻を鳴らした。
「ふん、どうやら」
よく分かっていない悠太の顔を覗き込み、楽しげに笑う。
「お前の持ってるものは本物らしいぞ、ガリガリくん」
「え、え?」
ほんものって、なにが。
悠太の戸惑いに構わず、雪虎が、近くのドアを開ける。
その先にあったのは、ロッカールームらしき場所。そこにならんでいたパイプ椅子の一つに悠太を座らせ、
「悪いがコイツに飲み物と軽食出してやってくれ」
「承りました」
恭しく腰を折った彼の所作は、格好がダサいのに、非常に絵になった。
つい見惚れた悠太を置いて、勢いもそのままに雪虎はロッカールームから外に出る。
階段を一段飛ばしに駆け上がっていくのが、ドアの合間から見えた。
「さて。開店まで時間があるからね。何か作るよ。好き嫌いはない?」
腕まくりをして、さっと手早く出されたのは、淡い色の…ジュース、だろう。柑橘系のいい香りがする。
「安心して、お酒じゃないから」
「あ、そんな。…その、ありがとう、ございます。お邪魔、します」
「いいんだよ、トラ先輩の客なら誰だって歓迎だ。ああ、それと」
その言葉尻に合わせて。
天井から、断末魔のような悲鳴が降ってきた。次いで、どたん、ばたん、板が割れそうな騒動が。
蒼白で男を見上げた悠太に、彼は崩れない笑顔のまま、言葉を続けた。
「悲鳴が聴こえても驚かないようにねって言いたかったんだ。タイミング、遅かったね。ごめんね」
子供に言い聞かせるような口調は、子守唄のように精神を慰撫する。
なのになぜだろう。少し怖い。
うっかり安心して寝こけてしまえば、目覚めた時、別の場所に閉じ込められているような、不気味な危機感がある。
雪虎がいることで周囲に与える無条件の安心感と、彼のコレはまた別物だ。
決して、甘えられない人だ。
確信した悠太は恐縮してやせっぽちの身体をますます小さくした。
「いえ…そんな…」
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