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日誌・91 命懸け

「あ、美味しい」 つい呟いた悠太に、男の笑顔が深まる。 ビン底眼鏡だから表情は分かりにくいが、少し、雰囲気が変わった。危険度がわずかだけ和らぐ。 「そう、よかった」 「ありがとうございます、ええと…」 10号さん。 呼ぼうとして、直前で呑み込む。さすがに、ない。察したか、 「ああ、トラ先輩が言った10号って言うのはね、後輩10号って意味だよ」 それでも名前は教えてくれない。 どう呼ぶべきか。悩む悠太に、男は付け加える。 「番号が付いたってことは光栄なことでね。つまりはトラ先輩にちょっとは使えるやつって思ってもらえたわけだ。今も使えるやつだからね。頼りにしてくれていいからね」 もしや、これは暗に10号呼ばわりしろと求められているのだろうか。 ああ、いや、そんなことより大切なのは、要するに雪虎がこの男にとって重要な人物だということだ。 それさえわかれば、怖さもだいぶん減った。 なにせ悠太は雪虎がここに連れてきた人間だ。ひどいことはされない。 確信に、ようやく悠太の肩から緊張が抜けた時。 「…あぁ、捕まえましたね」 男がドアの方を振り向いた。悠太もつられてそちらを見遣る。同時に。 高校生くらいの小柄な少年の首根っこを引っ掴み、不穏な顔でロッカールームへ雪虎が入ってきた。 「この…裏切者!」 ぶら下げられた少年が、ビン底眼鏡の男に、キャン! とばかりに怒鳴る。 驚くほど怖くない。 「誰にもオレがここにいること言うなって言っといたのに! トラに簡単にばらしやがってっ」 「そんな…いいですか、舟木先輩。胸に手を当てて、よく考えてください」 男は、そっと自分の胸に手を当て、にっこり微笑んだ。 「トラ先輩と舟木先輩、どちらか選べと言われたら、おれたちが誰を選ぶか、ほら、すぐ答えは出ますよね?」 少年は、ぶら下げられたまま、地団駄踏んだ。 「これだからナンバーズはぁ…こんの、狂信者ども!」 「その変な呼び方まだしてんのかよ…」 ナンバーズという言葉にだろう、雪虎があきれ返った表情で少年を見下ろす。 「後輩に番号付け出したのトラでしょ」 拗ねた顔で雪虎を見上げる少年。への字口になる雪虎。 「あの頃は荒んでたんだ、反省してる」 「もう遅いよ、見事に定着したよね…しかもみんなの意識にね!」 やけっぱちの勢いで言う少年は、高校生にしか見えない。というのに。 「あの」 悠太は恐る恐る、後輩10号を見上げた。 「さっき、あの人のこと、先輩って、言いました…?」 「悪いね、びっくりさせちゃった? でも間違ってないんだ、これが」 ビン底眼鏡の男はにっこり。 「あのひと、あんな見た目だけどトラ先輩と同じ年齢だから、騙されないようにね」 ちなみに名前は舟木翔平って言うの。 紹介の言葉に、悠太は改めて、不貞腐れた少年を見遣った。 くりくりの頭髪。ふっくらした頬。大きな目。 そうか分かったぞ、と悠太は微笑む。 「分かりました、冗談なんですね」 この少年は、どう見ても高校生だ。成人男性のはずがない。冗談と結論するのが常識的。というのに。 雪虎は肩を竦めた。 「こいつは存在が冗談だからな、どう判断しても正解だ、ガリガリくん」 「…分かりました、冗談じゃないんですね」 冗談なのは、その存在―――――ならば、後輩10号の言葉に嘘はない。 雪虎の物言いから、悠太はあっさり結論をひっくり返す。 「トラ先輩の言葉は信用するんだね? …傷つくなあ」 「お前は胡散臭いんだよ、10号」 雪虎はぴしゃり。 悠太はさすがに頷けないが、そう感じるのが自分だけでないのだなと心の片隅でほっとする。 ビン底眼鏡の男は落ち込んだ態度で首をひねった。 「昔よりはましになったかと思うんですが」 「滲みだすものが消えてないぞ。で、メシは」 「はい、ただいま」 打てば響くように応じ、ビン底眼鏡の男は雪虎たちが入ってきたドアから外へ出て行った。 ふん、と鼻を鳴らす雪虎。見た目詐欺の少年をパイプ椅子の上に置く。 その隣に、どっかと腰を落とすなり。 雪虎はくりくりの髪をぐわしっ、と掴んだ。 「さぁて、情報屋。この間のこと、―――――まだ覚えてるよな?」 「こ、この間って…、なにかあったかなあっ!」 翔平は青ざめる。険悪な雰囲気だ。悠太はおろおろしてしまう。 だがどこか、やりとりに軽妙さを感じた。 そう深刻ではない雰囲気。 「俺はお前の命を助けてやったな。俺の命が危なかったのに」 …なのに、内容は深刻な模様。―――――一体何があったのか。 割り込める雰囲気でもないし、聞けるわけもない。なんとなく悠太が察したことには。 …多分これ、こっちの少年もどきの人の方が悪い。 悠太は傍観することに決めた。 「そそそそれは、オレが機転を利かせたからだよね、トラのおかげじゃないよね?」 刹那、雪虎の瞳の温度が下がる。 翔平の大きな瞳を、間近から覗き込んだ。 「―――――おい、あの時の奴隷宣言は生きてるか。月杜には地下牢があってな」 なにかすごい言葉が出てきた。 逆に現実味がないと思ったのは悠太だけだったようで、 「すみませんでしたあああああ!!」 翔平が、いっきに涙目になるのに、雪虎は相手の髪から手を離した。 「謝罪はいらない。代わりに、今回、無料で協力しろ」 「へ?」 涙目をこすり、間抜けな声を上げる翔平を促すように、雪虎は悠太を見遣る。 そこで改めて悠太の存在を思い出した態度で、バツが悪そうな顔になる翔平。 「情報が欲しい」 「…まあオレに用なんてそれしかないよね。で、なにさ。簡潔に言って」 簡潔に? どう言えば、と悠太は困った目で雪虎を見上げたが、 「この辺りで、取引現場にあった大量の札束が消えたって話はあるか」 対する雪虎と言えば、本当に重要なところだけ一言で告げた。 なるほど、それだけでいいのか、と悠太にしてみれば、目からうろこの気分だ。 「は?」 とたん、翔平は顔をしかめた。 雪虎の台詞一つで、どれだけのことを理解したのか。 その視線が、悠太が膝に抱くスポーツバッグに向く。 「…よくここまで無事に来られたよね、キミたち」 平坦な声で呟いた。刹那。 ―――――ぐわっと翔平の大きな目が見開かれた。 「あのさトラ、つかぬことをきくけど」 「どうぞ」 「…いったい、ここまで、どこからどのルートを通って来たのさ」 「なんだ、そんなことか」 雪虎は、悠太が隠れていた公園の名称をさらりと告げて。 「表を堂々と通って来たぞ」 胸を張った。 ―――――ダンッ、机を殴りつけて立ち上がる翔平。 「意図的に巻き込んだね、そしてハメたね!? ここのセキュリティが一番信用できるってのもあるんだろうけど…!」 「こうでもしなきゃ、お前はきっちり仕事しねえだろ、情報屋」 額を突き合わせ、恫喝に似た低い声を出した雪虎は、不敵に笑う。 「命懸けで、やれ」 「~~~~もうっ、もうもうもう! 昔っから、こいつだけはぁ…っ」 翔平は心底、悔しそうだ。 だが、それだけ状況は切羽詰まっているということで。 そう言えば、店に入る前、雪虎は悠太になんと言ったのか。 ―――――一緒に助かろうぜ。 …こう、言ったのだ。 つまり、悠太と一緒に歩くことで発生するリスクを承知の上だったということで。 悠太は。 今の翔平の反応を見るまで、そんなこと、想像もしていなかった。 蒼白になった悠太に、眦を吊り上げた視線を向け、翔平は不貞腐れて肩を竦める。 「気の毒にね、お互い、もう崖っぷちだよ。そんなでキミ、生き残られんの?」 翔平の視線が言っている。 情けない。見下す目に、悠太は小さくなった。 「すみ、ません。ぼくの、責任、…っ」 全身の血が、氷にでも変わった気分だ。 吐きそうになった口元をおさえる悠太の頭に、ぽん、と温かい手が乗る。 果たして、その手の持ち主は言った。 「なら賭けるか?」 雪虎だ。彼は悪戯気に続ける。 「コイツは生き残る」 翔平が、醒めた目で言った。 「それに対して、何を賭けるんだよ」 もう結果は分かり切っている、と言いたげな態度だ。雪虎はちっとも怯まない。 「もしコイツが死んだら、今回の情報料を支払う。どうだ?」 「…いつもの悪ふざけだね。でもこういうときって、大概…」 言いさし、翔平は不貞腐れたように唇を尖らせる。 狼狽える悠太に構わず、もう勝ったような顔で、雪虎は言った。 「コイツ、なんか持ってるんだよな。大体、ここに情報屋がいるかどうかは、俺にも確信持てなかった。けど、お前はいた」 「…今夜には出ていこうと思ってたのに、最悪」 「そう、俺が言いたいのは、それだ」 少しでもタイミングがずれていれば、翔平はいなかったはずだ。だが、雪虎は間に合った。 他にもいろいろとある。 拾い間違った鍵束。 目の前で誘拐に出くわし、助けたこと。 結果、雪虎と知り合い、助けを求めたこと。 要所要所で、悠太は、一見、間違っているようで、実は正しい選択を続けているのではないか。 そして悠太がいることで、起こっている何か奇跡めいたものがある。 ―――――まるで、運命が見えているような。そんな言い方は、大げさかもしれないが。 今まで、悠太が持つそれに、誰も気付いていなかったのが不思議なくらいだ。 雪虎の目には、こんなにもはっきり見えているのに。 (面白いヤツ) だから雪虎は、悠太がここで消えるのは惜しいと思う。 「第一、本人に、こんな状況なのに死ぬ気はない。そうだろ、ガリガリくん」 「し、死ぬなんて! ぜったい、そんなの、いやです」 青ざめているのにもかかわらず、強い断言が返った。 そうだ、これだから。 どんなにみっともなくても、生き残ろうと足掻いている相手だからこそ、手伝いたいと思うのだ。 「頼もしいこった。さあ、ガリガリくん。そろそろメシもできるだろう。話してみな」 雪虎は悠然と笑った。 「お前の身に、いったい何が起こったのか。ただし、手短に」

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