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日誌・92 御曹司と死神

× × × 「では、手短に終わらせよう」 机の上に散乱した書類を目で速読しながら、御子柴大河は冷酷な声で告げた。 「お前の国の連中は、もうこちらの事業に関与しないと断言した」 床の上。 横倒しにされた大柄な男が一人、ぎょろぎょろと灰色の目を動かしている。 このような状況でも、どうにか逃げられないかと周囲の様子を窺っていた。 安っぽく整えられていた金髪は、今は、ぼさぼさだ。 手は背中側で縛られている。 膝は電気のコードでぐるぐる巻き。 口には猿轡。 大河は、彼を見下ろし、淡々と、だが―――――至極優雅に告げた。 「やり過ぎたのは、別にいい。お前の失敗はひとつ」 斜めに傾いだ事務机に、大河は軽くもたれかかる。 「御子柴の仕事を邪魔したことだ」 そんなわずかな動きにすら、品の良さが滲んだ。 思わず、と言ったように、灰色の目が大河に固定される。瞳に浮かぶのは感嘆。刹那。 ―――――ガツッ。 その頭部が、踏みつけにされる。 虫にでも相対したように。 やったのは、近くで控えていた遼だ。 声なくうめく男を見下ろし、暴挙に出た彼は内心、ため息。 先ほどの視線は、完全に、大河の中で嫌悪につながる。 きっと、彼はこう言う。 ―――――ソレは汚いね。 いっそ、優しげな声で。 同時に、容赦という言葉が大河の中から消えるだろう。 たちまちのうちに、彼の中の、凶暴な残忍さが、牙を剥く。 そうなると、いくら遼でももう手に負えなかった。 幼い頃からの経験のために、大河には、潔癖症めいたところがあった。 今の眼差しは、それを刺激する。…悪手だ。 遼が男を踏みつけたのは、ある意味、温情と言える。 「…やり方も利口だった」 ふ、と一度遼へ視線を流し、大河は書類に目を落とした。 「取引相手のメインは子供ばかりだったね。しかも、金持ちで、それなりに地位のある親が背後についている子供」 彼らとの取引を通じて、大量の金が流れた。 「根っこを枯らして潰すついでに、それらの取引情報が欲しいんだが…ここにはないようだ。誰かが持ち出したか、それとも別に保管場所があるのか…」 大河は、つ、と書類を指先でなぞる。 彼の視線が、今、書類に落ちていてよかった。遼は心底、そう思う。 足元の男が、その仕草に、ふと背中を震わせたのに、遼でさえ気持ち悪さを覚える。 彼が何を考えたかは、察することができた。理解はできないが。 御子柴に狂った者は、その書類すら羨ましい、と嫉妬をむき出しにするのだ。 はっきり言って、遼には意味不明だ。 彼だって妻を愛しているが、そこまでは思わない。 それは愛情ではない。ただの執着だ。 そう、キレイな玩具を『私のモノ』と主張する子供のような。 この状況で、あまり提案したいことではないが、 「…聞きだしますか?」 遼は言った。 この男の猿轡を外しますか、と。 尋ねながら、確信する。 ―――――きっと、ここで拷問が始まる。 なにせ、今遼が踏みつけにしている男は、大河に対してろくな台詞は口にしまい。 大河がどう考えたかは、見えない。 ただ、何を思いついたか、彼はこういった。 「そう言えば、構成メンバーが大半、空港に向かったようだな」 昨日、取引でトラブルがあったことは確認済みだ。 その上で、慌てたような移動がついさっき、起こった。 話し合いをするつもりが、急遽方針を変更、隙を突く格好で、彼らは事務所を制圧した…わけだが。 「そこで何が起こるかは掴んだか」 「いいえ」 諦めの心地で、遼は答えた。 「なら、…仕方ないな」 猿轡を外せ、と言外に、大河が指示する。 外さなければ話せない。 だがそうすれば、この場で血の雨が降るだろう。 間違いなく、踏みつけにしているこの男は、大河の残忍を刺激する。 遼は一瞬、迷う。 とにかく、今夜空港で、何かが起こるのは間違いない。 だが、既に幾人かに追わせているし、探らせてもいるが、未だ状況が見えずにいる。 (別の場所で派手な花火が上がりそうだな) 「噂では『魔女』も関わっているそうだが…あれらと関わるとは自殺行為だな」 大河が言うのに、遼は寒気を覚えながら顔を上げた。 声が違うのは、すぐにわかった。見れば、もう表情まで寸前と変わっている。 目が合った。 大河の目は、早く猿轡を外し、答えさせろ、そう言っている。 彼は、遼の反応の鈍さに苛立っていた。 本心を言えば、ごめん被りたい。 (…このヒトが不機嫌になると、数日は低気圧が続いて胃を痛める部下が増えるんだが) たぶん、足元の男は頭が悪い。 大河に向かって何を言うか分からなかった。 いや、ろくでもないことを言うのは何も聞かなくても分かる。 しばらく胃薬は常備しておくことを覚悟して、遼は頷いた。 男の頭上から、足を退ける。 身を屈め、猿轡を外そうとする遼の耳に、霜が降りたような大河の声が届いた。 「『魔女』がかかわったのは、今回の取引のみか? それとも…」 ふ、とその言葉が途中で止まる。不自然な切れ方だ。 何事か、と遼は顔を上げた。 見れば、着信でもあったか、大河が自身のスマホを少し取り出し、ちらと画面を見下ろしている。 眉をひそめる。遼を見た。彼が頷けば、大河はスマホを耳に当て、向こうを向く。 その背中を見た刹那。 遼のポケットの中でも、スマホのバイブが動いた。 控えていた部下に合図し、這いずって逃げようともがく男をいったん任せる。 着信画面を見た刹那。 遼の顔色が変わった。 一方。 通話ボタンを押すなり、大河は冷え切った声で言った。 「はい」 覚えのない着信番号だったからだ。直後、 『やあ、はじめまして、こんにちは。風見恭也って言います。知らない番号なのに出てくれるなんて助かる』 耳障りなノイズの向こう側、聞き覚えのない声がぽんぽん返り、馴れ馴れしさに大河は一瞬、眉根を寄せた。 同時に。 ―――――風見恭也。 その名が意味するところを、即座に弾き出した頭脳を罵りたくなった。 これもう、切ろう。 できれば、縁ごと。 『何考えたかよくわかる沈黙をありがとう。きっとそれ、お互い様だね。だから、サクッと終わらせよう』 恭也の声は、明るい。だが、空ろだ。 大河は完全に表情を消しており、窓ガラスに映った彼は、氷の彫像のようだ。 『まずは肝心な部分から。今夜、アンタの身辺で、空港裏の空き地で起こるトラブル、首謀者はトラさんだから』

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