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日誌・93 電光石火
「―――――…」
いきなり出てきた名前に、ふつっと大河の思考が止まった。頭の中が真っ白になる。息さえいっとき、止まっていたかもしれない。
それでも、次に出た大河の声は冷静だった。
「君がこの件に関わっているという話は聞いていない」
そもそも、風見恭也が日本にいるという情報自体、どこにもない。
この男が、日本の片隅のこんな小競り合いに好んで首を突っ込むわけもなかった。
…いいや。
ひとつだけ。
死神が興味を持ちそうな特異な存在ならば、今、この地にいる。
「そうか、『魔女』か」
『魔女』。
これは、ヨーロッパ各地で迫害の憂き目にあった個人同士が生きるために手を組み、山野に潜み、もしくは時の権力者に歯向かった、そういった歴史を背景に持つ組織だ。
その性格上、災いの種をばらまき、闇を呼び寄せるとされ、基本的には忌避される。
ただし。
―――――それを望む者が、世に一人も存在しないわけではない。
大河はそれらを思い出しながら、言った。
「死神は『魔女』と関わりがあったな」
『ぼくじゃない。母が一時、関わりがあったってだけの話だよ』
恭也は不快気。
一時関わったとして、よく生きていられたものだ。
『ぼくとしては興味もない。けど、暇潰しに行動を追ってた黒百合が発見したんだよ』
―――――驚きの状況を、今。
明るい声に、次第に苛立ちが滲みだす。
恭也のそばには、黒百合という情報収集に長けた人物がいる。
大河が、事態を叩き潰す側にいることなど、調査はし尽くしていることだろう。
それでも。
あれほど優秀な能力を持つ黒百合が、情報を掴むのに追いついたのが、コトが起こりそうだという、たった今とは。
…いつから情報を追っていたのかにもよるが。
それほど雪虎の行動が電光石火だったのか。
雪虎が行動を起こすのに巻き込んだ人物たちが優秀なのか。
―――――ああ、すべてあてはまりそうだ。
とはいえ、
「待て」
まず、肝心なところが分からない。
「なぜ義兄がこの件に関わっている」
これが一番重要なことだ。
なのにまったく、雪虎が騒動を起こすきっかけが見えない。
雪虎は、金曜日の夕方、こちらに到着した。
御子柴家で彼が作った夕飯が振る舞われ、親、子、孫、三世代揃って久々の穏やかな団欒の時間を過ごしたことは、記憶に新しい。
確か、今日は大河の両親とさやかと子供二人での外食後、夜の便で地元へ帰る、そんな予定だったはず。
『…はっ、義兄、ね』
恭也は一度、鼻で笑い、低い声で続けた。
『おおかた、あんたの奥さんが巻き込んだんじゃないの』
「ばかな。彼女はそもそもこの件を知らない」
彼ら夫婦は分業制だ。それには理由があった。
「僕たち夫婦は別々に動いた方が、効率がいいんだ」
一緒に動けば、逆に意見が対立して手間取る。似た者同士なのだ。
「第一、こんな危険なことに妻が、大切にしているあの人を巻き込むわけがない」
さやかは無法なようで、雪虎に関する線引きはしっかりしている。
たまにそこが曖昧になるのは、―――――思いさし、つい、大河は瞑目した。
(そう、トラさんが自分から踏み込んできた場合に、何かが狂って一気に事態が混沌と)
『はあっ? だったらどうして』
恭也の声に、驚きが混じった。途中で止まる。大河の言葉に嘘がないことをすぐに察して。
どうやら彼は、さやかが巻き込んだと決めつけていたようだ。
だが、確かに、そうでないなら―――――どうして。
「…どこから義兄は首を突っ込んだんだ?」
『こっちが教えてほしいんだけど!』
お手上げ、と言いたげな口調で、恭也。
『はぁ…まあトラさんだからなんでもありか。話を進めるよ』
大河が悩む間にも、電話向こうの声は続いた。
『残念だけど、ぼくは今、日本にいない』
声が、非常に悔しげだ。
『トラさんだけでも拾いに行きたいけどできない。だから近くにいるアンタに連絡する。この件、アンタも無関係じゃないようだし?』
大河はようやくわずかに息を吐きだした。
だが浅い呼吸しかできなくなっている。
胸が引きつったような心地になって、意識して大きく息を吸い込んだ。
「…義兄が関わるとしたなら、あの人も潰す側だろうが…」
本当に。
いったいどこで、トラブルを拾ったのか。
そしてどの方向から、誰と組んで、潰しにかかってくるのか。
驚きが過ぎ去った後に残るのは、呆れだ。そして、諦念。
あの人だから、仕方がない。そんな心地。
なぜ面倒ごとに首を突っ込んでくるのか。
そんなつもりで、地元から出てきたわけではないだろうに。
期せずして、ため息が電話口の向こうとこちらで同時にこぼれた。
大河は嫌な顔になる。きっと恭也も同じ表情だろう。
けれどそれに対しては、恭也は何も言わず、
『…せめてトラさんの命は確保して。できれば身体も無事で』
耳に届いた弱いような声に、大河はふと苛立つ。
心なし、憤然と答えた。
「言われるまでもない」
『御子柴があの人を守るって信用があるから、トラさんにはまだ自由が許されてるんだよ。でなきゃ月杜は、あの人を地元から出さないでしょ』
月杜秀。
思い出すだけでも、気持ちが塞ぐような重圧をかけてくる男。
彼が脳裏を過るなり、
「―――――そう、月杜だ。義兄は」
大河は首をひねった。
「『魔女』は…あの存在はすべて月杜を嫌悪している。関わってくるだろうか」
『だから逆にどう出るか分からないんだってば』
子供のような物言いで、口を挟む恭也。すぐ、咳払い。
『大体、『魔女』が動くなんてどんな大ごとかと思ったら、そいつ、随分とくだらない依頼を請けてるね』
「…くだらない依頼?」
恭也という玄人が、この言いざま。―――――であるならば。
「組織が『魔女』に依頼した…わけではない、ということか」
意外だった。ならば大河は状況を少し考え直す必要がある。
『ご明察。…おっと、そろそろ時間だ。あとはそっちで調べてよ。じゃあね』
かけてきたのも突然なら、通話を切るのも唐突だった。
番号は画面に出ているが、おそらく、こちらからかけなおしたところで、つながるまい。もしくは、手痛いしっぺ返しを食らう可能性が高かった。
無言でスマホを耳から離したところで。
「少しいいですか、大河さん」
焦ったような困ったような態度で、遼が声をかけてきた。
基本的に何事にも動じない男が、珍しい。
「今、八坂さんからオレに連絡がありました」
そのとき、大河はどんな反応をしてしまっただろうか。
遼の態度に変化はなかったが、寒気を感じたかのように、視界に映る幾人かが身震いした。
「…あと10分もすれば空港裏の空き地に着く、とのことです」
どこまで何を聞いたかは知らないが、遼は一度ため息を飲み込み、大河の指示を仰いだ。
「そちらへ出ている者に出す指示を、八坂さんの捕獲優先にしますか」
心の中で大きく頷きながら、大河は小さくため息をついた。
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