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日誌・94 雪虎という男

× × × 大体、八坂雪虎というヤツは、少なくとも中学の時には既にイカれていた。 陰鬱で劣等感が強い上に、好んで舞台裏で立ち回ろうとする割に、なぜか場を掌握する力を持っていて、昔から誰も、雪虎を無視できなかった。 本人は堂々と自分は小心だと公言して憚らないが、あれはたぶん、比較する対象を間違えているのだ。 雪虎が小心なら、この世の大半は小心者だ。 (厄介だよ、ほんと) 情報屋・舟木翔平は、改めてそう思う。 翔平は、ちゃんと説明した。 近頃、この辺り一帯で頭角を現してきた外国人の集団がいると。 彼らが、無法な手段で儲けを手にしていることも。 とはいえ、やり方が無茶苦茶だから、おそらく近いうちにどこかが潰しに乗り出す。 が、今は危険だから関わるな―――――そのように、強く念押しした。 若林悠太を面倒ごとに引っ張り込んだ先輩とやらは、悪賢いが単なる小悪党だ。どうでもいい。関わりたくないのは、そいつの背後にいる外国人どもだ。 正気なら。 聞いた時点で、ついさっきまで見知らぬ他人だった悠太など放り出すはずだ。 なのに、雪虎ときたら、悠太が置かれた状況を聞き出しながら、 ―――――これなら、かろうじで勝算は立つな。 ときた。それを平然と言うのだから、どうだ、狂っているだろう。 ―――――勝つつもりでいるの!? 翔太が叫べば、 ―――――世の中生き残ったモン勝ちだろ。負けは死ぬってこった。勝つぞ。 開き直った。 …こうなれば、付き合う以外の選択肢は、翔平には残されない。 翔平が知らない小学校時代に雪虎は、その場にいても消えそうなほど内気だったと聞くが、そんなの絶対嘘だ。 詳細を求められた結果、洗いざらい吐くしかなかった。 ただ、確かに、この件には―――――御子柴が関わっている。である以上、御子柴は雪虎を見捨てないだろう。そう。 (トラだけは!) つらつらどうでもいいことを考えているのは、今、翔太は目も開けられないほど怖いからだ。 頭を抱えて小さく丸くなり、蹲っている。 建物を出たのは、雪虎と寝起きに再会して(心臓に悪い醜悪さだった!)どれくらい後だったろう。もう他の従業員たちも集まり、店は始まっていた。 こうなれば翔平は、できればもう少し、そこにとどまっていたかった。 大体情報屋というのは、騒動の外で高みの見物をしているのが定石である。 なのになぜ、雪虎に関わると台風の目に引っ張り込まれることになるのだろうか。 今回も、外に出ていた後輩10号からの合図の電話が鳴るなり、雪虎に首根っこを引っ掴まれ、悠太と共に猫の子のように外へ連れ出された。とたん。 強面連中に取り囲まれた。 声をかけられ、その包囲網を雪虎の暴力で抜けるなり。 その目の前に、10号が停めた車に放り込まれ―――――都会の道で、カーチェイスが始まった。とはいえ。 無論、相手も複数台の車に乗り込んで追いかけてきたわけだが、なにせ、交通量が多い道を選んで進んだのだ。追いかけっこは思ったより、結構地味だった。 信号で停まった時には、いつ相手が車から降りてくるかとひやひやしたが、相手は大勢の目に留まるところで、派手な行動はとりたくなかったようだ。 彼らは彼らで、自分たちを潰そうとする勢力が動いていることを察しているのだろう。 翔太の予想通り、と言いたいところだが、これは実際、賭けだった。 乗ったのは雪虎で、…当たりだったからよかったものの。 飛び出しそうな心臓を飲み込む翔平の視界の中で、彼らは優等生に、道路交通法を守りながらついてきた。 外に出ていた10号が、乗ってきたその車というのが。 噂の、若林悠太の車である。 そこで生活していたという言葉通り、車内に洗濯物とか干してあった。 ―――――ポンコツだからスピード出せないんです。 事前に聞いていた若林悠太の車は、年式から当然のようにお年寄りだった。 ―――――乗り物の運転なら任せて。 言ったのは、頼りになるのかならないのか分からない後輩10号だ。 そして、今。 車は、原っぱのど真ん中で停まっていた。 後部座席の足元に小柄な体を潜り込ませ、舟木翔平は頭を抱えて蹲っている。 後部座席のドアを開け、気配が頭上から覗き込んでくるのが分かった。 「あの、舟木先輩? いつまでそうしてるんですか」 うるさいエンジン音も消え、身体を前後左右上下からきりもむ衝撃もなくなり、周囲はとてつもなく静かだが、 「…うるさい、大きな声出さないで、吐くよ」 そう、翔平は乗り物酔いの真っ最中だった。 なにせこの後輩、乗り物の運転に関しては天才的な勘と腕前を発揮するが、雑で荒い。 翔平の心の中は、まだ恐怖で一杯だが、10号の声がすることで、この場の危険が去ったことは理解する。 のろのろと顔を上げれば、 「相変わらずですね」 モデルも裸足で逃げ出す男前が、雑誌から抜け出したような格好で、苦笑気味に翔平を覗き込んでいた。 ビン底眼鏡がコンタクトに変わり、服装が変わった。 言ってみればそれだけだが、数時間前とはすっかり別の男が仕上がっている。 着替えた10号が現れるなり、若林悠太など、しばらく言葉をなくしてしまった。 さもありなん。翔平でさえ、未だ驚く。 これで気持ち悪いくらい女にもてた。いや正確には、モテ方が気持ち悪かった。 それが高じてのことだ。ホストクラブなんてものを経営し始めたのは。 ―――――女の子が好きなんです。お姫様扱いして尽くすのが快感で。 その言葉を聞けば、あ、紳士だけど、ちょっとMっ気ある危ない人かもしれない、と大体のひとは思うだろう。 ただし、本音のところを掘り下げれば、その趣味は地獄へ通じている。 ―――――でもオレがどれだけ尽くしても、最後の最後まで警戒して疑う子が一番好きです。溺れてくれる子も可愛いけど、当たり前みたいに思われるとつまんなくなって、飽きちゃうんで。 ソレ、溺れさせたのは誰だろうか。 人でなしなことを言いながら、10号は本当に幸せそうに笑った。 ―――――オレがいないと駄目なくらい依存させたいんです。けどこれでいいのかな、って疑う理性は死ぬまで持っててほしいって言うか…そう、ずっと、処女みたいに。 病気だ、お前、と一蹴したのは雪虎だった。 翔平などは、彼の微笑に本気でぞっとなった。 「トラは? 行った? さっきの子と一緒に」 そう言えば、少し前、ものすごい衝撃があって、車がうんともすんとも言わなくなったのだ。おそらく、エンジンが死んだ。10号は肩を竦める。 「とっくの昔に」 「相手も車から降りて追ったの?」 「はい。車で追わなかったのは何でですかね?」 「これだけ草の丈が高いと、下手したら誰かが目算間違ってはねちゃうよ」 「はねるのが怖くてのろのろ車で追うより、走って追った方が逃げられる危険性が低い?」 「だろうね。一番には、どっちも殺したくないんだよ、二人のこと」 「どっちもって…追手は彼の先輩サイドの人間だけじゃないってことですか」 「追手は途中で増えてたし、中には御子柴サイドの人間もいたでしょ」 「…あんな姿勢で、よく周囲のこと見えてますよね、舟木先輩って」 「死にたくないからにはね。ああもう」 這うようにして、翔平は車から出る。車内より、外の空気の方が、断然心地いい。 蹲り、顔を風にさらしながら肩を落とす。雪虎が、どこへ行ったのか分からないが。 「生き残ってくれるよね」 雪虎だけならまだしも、おそらく、この場にいないもう一人、若林悠太を彼は連れていった。 生き残る確率、勝算は、それで幾分か下がったろう。 眉根を寄せる翔平に、10号は唖然。 「え…そんな…まさか、舟木先輩がトラ先輩の心配ですか? ちょっとすみません」 「わざとらしく、熱を測ろうとするな!」 伸ばされた手を叩き落とし、とたん、吐きそうになって翔平は口元をおさえた。 「トラの心配なんかするもんか。ただここまでかかわってトラが死んだなんてなったら」 今度こそ、絶対、翔平は始末される。あの鬼に。 ―――――しかもこの地には。 さやかがいる。 もちろん、さやかも怖いが。 御子柴の大物が出てくる、絶対に。 さやかの夫。 御子柴大河。

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