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日誌・112 さやか

× × × 水川さやか。 彼女は、母親が呼んでいたその名を、ずっと自分の名前として名乗ってきた。 だが、結婚前のある日、からりと笑ってさやかは告げたものだ。 「だけどね、本当はちょっと違ったみたいなのよ」 『さやか』ではなく。 『小夜香』という漢字が戸籍上に記されているらしい。 それを知ったきっかけは。 男と蒸発した母親の、友人だったと名乗った女性と高校生の時、出会った時だ。 その、出会いがどういうものだったのかと言えば。 さやかは、その相手の金づるだった男を奪った女で、…いわゆる修羅場だった。 穏やかに終わる場面ではない。 そのとき、嘲笑と共に事実を告げられたらしい。 ―――――『さやか』、ねえ? ひらがなじゃないわよ、あなたの名前、漢字で『小夜香』って書くの。知らなかったの? その後初めて、彼女は役所へ確認に行った。 雪虎について行ってもらったそうだ。 すると、確かに、戸籍は『小夜香』となっていた。 愕然としたさやかに、何ともない顔で雪虎は言った。 ―――――ずっと『さやか』って名乗ってたんだから、皆にとって、『さやか』は『さやか』だろ。今更変える方が周りに迷惑じゃねえの? こういう場合は、ずっと名乗ってきた方が、ホンモノの名前ってことでいいじゃん。 戸籍が『絶対』で『正しい』わけじゃない、そういった雪虎の理論は乱暴かもしれないが。 さやかは納得した。雪虎の言葉に、安心できた。 だからずっと、彼女は『さやか』と名乗っている。 こういった事情も、さやかは隠さず明らかにしていた。 入籍しても、『さやか』で通しているからだ。隠しては弱点と取られる。そうならないためにも。 「でもトラちゃんは、わたしを名前では呼ばないんだけどね?」 あかるい日差しの中、苦笑したさやかの顔が、脳裏に閃いた刹那。 大河は、目を開ける。 内心、首を傾げた。 まだ周囲は暗い。 妙な時間に目が覚めたものだ。 思うなり、事務的な用事があったことを思い出し、壁にかかった時計を見遣る。 ―――――針は、真夜中を超えたばかりだ。 同時に、すぐ近くに寝息を感じた。 内心、ぎょっとする。 だが、触れる体温と、鼻先の匂いに、ふぅと身体から力を抜いた。 雪虎だ。 安心しながらも、珍しいな、と思わずにはいられない。 だいたい、雪虎は大河より遅くに寝て、大河より早く目覚める。 こんな風に、雪虎が眠っているときに大河が目覚めると言ったことはない。 まあ、それにはきちんと理由がある。 雪虎が毎回、大河を抱き潰すつもりかと思う勢いで気絶するまで責め立てるからだ。 これは、大河の態度にも問題はあるのだろう。 そうして、疲れ切った大河は泥のように寝入ってしまう。だが今回は。 (…一回だけだった、な) 何度放っても満たされた様子を見せないくらい、性欲の強い雪虎が、今回は、一度だけしか放たなかった。 借りを返す、そう言ったお題目があったせいだろう。 無理はさせない、そんなつもりなのかもしれなかった。 対して大河は中でも外でも何度か達したが、いつもよりは疲労が少ない。 だから今回は、こんな珍しいことになったのだろう。 それに雪虎には、一連の騒動に巻き込まれた疲れが残っている。 身体にかけられていた布団をおそるおそるめくれば、ちゃんと服は着せられていた。 見れば雪虎も、着ている。 もともと、雪虎にはそういうところがあった。 覚えられている限りでも、情事の後、だらだらと裸でいることはない。 すぐに服を着こんでしまう。 …そういう、ところが。 思いさし、大河は小さく息を吐きだした。 雪虎が、突然最中に言い出したことを思い出したからだ。 この関係を清算しないか。そう、言った。 ただ、その態度も、正直なところ、散々、思い悩んで、といったような重さはなかった。 結局、雪虎には、そういった道徳観、というか、モラルは欠如している。気にもしていない。そこは、大河とさやかも同様だ。 とはいえ、全員、肝心なことは、重々承知している。 即ち。 世間から見れば―――――大河とさやかと雪虎の関係は、真っ当ではないということ。 そこさえ押さえていれば、行動にも気をつけようというものだ。 雪虎があのようなことを言い出したのには、何か、きっかけがあるはずだが。 (こちらにきた短い間に、何かを誰かに言われそうな機会はあったか…? そう言えば、父さんと二人きりだった時間があったな) あとで父を問い詰めねば、と大河は眉根を寄せた。 ただ、大河から見れば、今の関係は、誰にとっても悪いものではない。 実際、傷ついて泣いている人間がいればいけないことだが、関係はうまく回っている。 非常に円滑だ。 ここで、雪虎に抜けられる方が、問題が大きくなるかもしれない。 両親や子供たちには、口に出して言ってはいないが、隠してもいなかった。 もし、さやかとの夫婦生活はどうなっているのか、と聞かれたとするなら。 表向きは、うまいこといっている、と胸を張る。 ただし、本音を言えば。 ―――――お互いを異性として意識することは、もう絶対、ないだろう。 あまりに彼らは似た者同士だった。 たとえば、一つの状況下において、視線を交わしただけで、考えていることが分かってしまう。 しかもその思考が、自身とうり二つなのだ。 周りから見れば、そういった関係は、理想の夫婦に見えるらしい。 だが。 大河とさやかは、性別のみならず、親が違えば環境も全く違うのに、実は双子じゃないのかと思うほど似ていた。 この場合、外見ではなく、思考回路が。 よって、さやかを抱こうとすることは、自分を抱くことのようで、…なんというか、非常に難題なのだ。 それは、さやかにとっても同じらしい。 互いを知れば知るほど、そうなってしまった。 なにより、もともと、互いにセックスというものに対して、いい印象を持っていない。 結果、同類嫌悪の様にならなかったのか、と言われそうだが、起こったのは逆の現象だ。 そうなった理由は、育った環境がまったく異なるからこそだったろう。 考えを理解できるからこそ、より、支えい合い、守り合う、同じ目的に向かって、共に戦う―――――そういった、理想の相棒になれた。 そう、これだけは確かだ。 大河とさやかは、お互いを大切にしている。愛し合っている。 ただし、男女としてではない。 あるとするなら、実の兄弟のような絆だ。 …兄弟、と言えば。 男女の仲ではないか、と疑われるのは、主に、雪虎とさやかの方だ。 大体、大河の長男の名は『大地』だが、長女の名は『小雪』である。明らかに、さやかと雪虎を思わせる名だ。 そんなことをするから、疑われるのも無理はない。 第一、二人には、血のつながりがないのだ。誰だって、疑ってかかるだろう。それでもあまり表だって騒がれない理由は一つ。 雪虎が月杜の関係者だからだ。 それでも、雪虎とさやかが一緒にいれば、周りはなんだか納得してしまう。 ああこの二人は、兄妹なのだ、と。 双方ともに、少し、毒気に似た色香を持っているにもかかわらず、そう思えるのだから、不思議だ。 いやそれとも、色香が妙に似通っているから、その雰囲気のせいだろうか。

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