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日誌・113 硬質な傲慢さ
大河は改めて、闇に慣れた目で雪虎の顔を見遣った。
寝顔を見るなど、はじめてかもしれない。幸い、雪虎の寝顔は穏やかだ。あどけない。
―――――先ほどは。
雪虎を便利な道具のように言ってしまった。
思い出し、大河は一瞬、強く奥歯を食い縛る。猛烈な自己嫌悪が、腹の底で渦を巻いた。
(…自分に腹が立つな)
そんな風に扱われるむなしさは、よく知っているのに、よくもあのようなことを言えたものだ。
雪虎が気にしていないようなのは、幸い、と取っていいものだろうか。
大河の言葉など、雪虎にとっては何の傷にもならない、価値もないもの、と言われているような気もするが。
おそらく、正解は―――――もっと悪い事実だ。
雪虎は、自己評価が低い。
つまり雪虎の中には、自分がその程度の…道具のような存在にしか過ぎない、という認識が当たり前のようにある。
大河の台詞に傷つきもしないのは、…だからだ。
―――――雪虎は、強い。強い、男だ。というのに、この自己評価の低さ。
気付くたび、触れるたび、とても危ういと思う。
だがこればかりは、自分で気付いてもらうしかなかった。
他人がどう言ったところで、雪虎自身が納得しなければどうにもならない。
すぐには前へ進みそうにない思考を一旦放り出し、大河は起き上がった。
眠る雪虎を気遣いながらベッドから抜け出し、脱衣所へ向かう。
スマホを入れっぱなしの上着が、そこでハンガーにかけられているはずだ。
最中、自分の歩行に、さして支障がないことに、大河は首を傾げる。
雪虎との性交後の割に、どこにも、違和感や痛みがない。
だいたい、先ほどの雪虎との交わり自体が、不思議であった。
―――――どうしてあんなに簡単に、大河の中へ、雪虎のイチモツが挿入できたのだろう。
指が数本、一度に侵入してきたときも、痛みはほとんどなかった。
「…」
大河は柳眉を潜める。
前の晩は酔っ払って寝入ったはずだから、何もしていないはずだが。
(一人遊びもほどほどにしておくべきだな)
明かりはつけないまま脱衣所へ入った大河は、洗濯機を見て、ため息をついた。
中身が空っぽだ。ということは。
(眠っている間に、トラさんがやってくれたのか…)
見れば、浴室の扉がしっかり閉ざされている。
思うに、洗濯物をこの中に干して、乾燥のスイッチを入れたに違いない。
マメなひとだ。
視線を転じれば、スーツの上着は、風呂に入る前、雪虎がかけた位置に吊ってあった。
ポケットを探り、スマホを取り出す。
パスコードを入力、画面を見れば、幸い、不在着信はなかった。
そのままベッドへ戻ろうとして、すぐ足を止める。
スマホ画面の明るさが気になった。
雪虎が目覚めるといけない。
だからと言って、このまま立って連絡を待つのも手持無沙汰だ。
仕事でもするか、とらしい思考で執務机のある方を見遣った時。
手の内のスマホが、バイブで震えた。画面を見れば、出ている名前は。
―――――部長。即ち、鳥飼遼のことだ。
丁度いいタイミングである。
話し声が漏れないよう、脱衣所のドアをしめながら大河は通話を繋げた。
『夜分遅く申し訳ありません、大河さん』
すぐ、遼の冷淡な声が聴こえる。
「構わない。そちらは仕事だろう。結局、残業になったな」
はじまりはともかく、文句も言わずに働く有能な男だが、消耗品ではない。
どこかで適正な休暇を取らせなければ、と考えながら言えば、珍しく遼が一瞬戸惑ったように言葉に詰まった。
『…すみません、もしかして、さやかさんと一緒でしたか』
遠慮がちな問いかけに、一瞬、大河は言葉に詰まる。
それほど、今放った大河の声は、色がついた声だったのか。
夫婦一緒にベッドの中と感じる程度には?
遼は勘がいい。
頼もしい半面、面倒な、と思いつつ、大河は意識して、しゃんとした声で言った。
「今は一人だ。…それで、情報通りだったか」
はい、と今度はいつもの調子で返った声に、電話向こうで、誰かがキャンキャン騒ぐ気配がかぶさる。
その相手にだろう、遼が誰かに声をかけた。
『ああ、お待ちください、舟木さん。今、大河さんとつながってますので』
遼の声にかぶさって、煩い声が続くのに、
「揃っているなら、スピーカーにしろ」
大河は冷え切った声で命じる。
『はい』
従順に返した遼が、スマホをどこかに置いたようだ。
たちまち、向こう側の声が明確に、大河の耳に届いた。
『いーかな、もう一回、念を押すよ。オレはもう関係ないったらないからね! 情報屋が情報屋の情報を売るなんて、もうそんな話受けないからっ』
「―――――その情報屋はやり過ぎ…いえ、遊びすぎました。違いますか、舟木さん」
大河は、つららで刺すような口調で言う。
とたん、童顔の情報屋は、ばっと口を閉ざしたようだ。落ちた沈黙の中、
『言い遅れましたが』
遼が静かに告げる。
『今、このスマホ、スピーカーになっています』
『遅いよおっ?!』
翔平が遼に噛みついたようだが、驚くほど怖くない。
かと言って、この情報屋、―――――舟木翔平―――――は油断がならなかった。
「―――――さて。…聴こえているなら、何か言ったらどうだ」
感情が一切覗かない声で、大河。
もちろん、翔平に、ではない。
まだ一言も口をきいていない相手に、だ。
誰への言葉か。
言われずとも、全員察しただろう。自然と沈黙が落ちる中、観念したように一人の男が声を上げた。
『はあ。そうですね、じゃあ、はじめまして? 声が聴けて、光栄で』
飄然とした言葉が途中で途切れる。
代わりに、暴力的な音が上がった。
舐めた口調に、誰かが教育的指導をしたのだろう。
『い、つつ…ひどいなぁ』
だが、懲りた様子もない声は。
―――――数時間前、空港裏手を双眼鏡で観察していた男のものだった。
誰が横からくちばしを突っ込んできて、そのためにどの程度事態がこじれたか、そのあたりのことを、あらかた大河たちは承知している。
今、尻尾をつかまえた相手が、一筋縄でいかないのは、熟知していた。
だからこそ、大河の手元にある情報と「なんでもする」といった舟木翔平が持つ情報とで、念のための確認も済ませてある。
その上で、相手の逃げ場は、完全に潰した。
大河は前置きなく本題に入る。
「『魔女』を巻き込むとは、誰にでもできる手腕じゃない。面白い遊びを仕掛けてきたものだ」
『あーぁ…どこまでバレてるんですか』
すぐ、男は察した。
大河は、駆け引きの隙など与えてくれない。
無駄話などはじめては逆に、身を滅ぼすことになる。
大河は穏やかな声で、冷酷に告げた。
「貴様とは会話をする価値もない」
とたん、向こうで薄ら寒いような沈黙が落ちる。構わず、大河。
「今から尋ねることに、はい、か、いいえで答えろ。利口な犬になれ、長生きしたければな」
物柔らかな姿勢でありながら、決して折れないだろうと感じさせる、硬質な傲慢さ。
気が弱い相手なら、完全に心まで支配され、言うことを聞かなければと言う気にさせられるだろう。
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