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日誌・119 重い鎖一つ

× × × 夏、真っ盛り。 浜辺近くの喫茶店で海を眺めながら、雪虎は目を細めた。 年季の入った色褪せた看板がかかっているこの店は、釣り人がよく訪れるのだろう。 朝が早い。 雪虎は、口をつけていない手元のコーヒーを気のない目で見下ろし、次いで。 目の前の空席に、視線を向けた。 そこにはもう誰もいない。 ただ、席の前には紅茶が置いてあった。こちらも一口も飲まれていない。 雪虎の眉間にしわが寄る。 とたん、気難し気な印象が強まった。 大きく息を吐きだし、椅子の背もたれにもたれかかる。 (迷惑そうな顔だったな) 最初から最後まで。 ―――――もういいかしら。私、これから仕事なの。 彼女―――――母親が、父と離婚したのは知っていた。 そして、同じ県内だが別の町で、他の家を買ってそこで住んでいることも。 それがこの浜辺近くだとも知っていた。 思い立ち、会って話をしたいと思ったのは、今更恋しくなったからではない。 雪虎は目を細めた。 (まだ、俺があのひとに呪縛されているかどうか、しっかり確認をしたかった) 雪虎の中の幼子は、まだ母の愛を求めているのか。 …乞食が一握りの食事を乞うように。 もういい加減、そんなものに、足を取られるわけにはいかない。 果たして、待ち伏せしていたわけでもないのに、雪虎が近くまで来た時点で、彼女は家から出てきた。 挨拶は自然にできた。不自然なほど。 普通の顔で挨拶を返した彼女は、雪虎を認めた刹那、パッと顔を背けた。 他の皆と同じように。 雪虎の醜悪さに、耐えきれず。 その衝撃が去った後は、たちまち迷惑そうな顔になる。 すぐ、守るように家の方を見遣った。 家の車庫に二台の車を認め、雪虎は察する。 勿論、聞いてはいた。 ―――――家を出た母親は、新しい男と一緒に暮らしていると。 …その、すべてに対して。 雪虎は何も感じなかった。 幸か不幸か。 迷惑そうな態度に傷つきもしなかった。 そうやって、ひとつひとつ、自分の中の子供が消えているのを確認しながら。 離れた場所で少し話をしないか、と、この喫茶店に誘ったわけだ。 渋々ながら、彼女は雪虎に従った。 従わなければ雪虎が何かしでかすと警戒する態度で。 そんな、彼女のすべての行動が、雪虎の何にも引っかからなかった。 最後まで、目を合わさなかったのも、どうでもよかった。 ただ、記憶にあるよりも小さくなったのが気になった、けれど。 知らず、ため息をつく。 ―――――もう、本当に、母とは他人になってしまったのだ、と。 変わったのだ。 終わったのだ。 二人とも。完全に。 その、確認は終わった。 寂しいようで。 空しいようで。 そのくせ、胸が、少し軽くなった。 重い鎖が一つ、消えてなくなったような。 小さく竦んでいたのは、昔は雪虎だったのに。 今は、彼女の方が雪虎に怯えているようだ。 雪虎の中の幼子は、もうどこにもいなくなっていた。 (もう、会うことはないだろうな…あの人とは) これ以上無理に会って、こちらにはその気もないのに、勝手に脅されている心地になられるのも面倒くさい。 離れてから今まで、一度も会わなかったのだ。 偶然でも起きない限り、もう会うこともないだろう。 とっくにぬるくなったコーヒーを無理に煽り、雪虎は会計を済ませて喫茶店を出た。とたん吹き付けた熱風に、顔をしかめる。 道路向こうは海。 狭いが、砂浜が広がっている。 周辺は、潮の匂いが濃い。 まだ日が出て時間はそれほど経っていないのだが―――――暑かった。 水面の照り返しもやたら目に痛い。 とたん、どっとふきだした汗が顎から滴るのを、黙って拭う。 雪虎はその名の通り、冬生まれだ。そのせいか、夏は苦手だった。 まだそこまで熱を孕んでいないアスファルトの上を渡り、海へ向かう。 浜辺と言っても、地元だ。 しかも、有名どころではない。 砂浜のそこここにゴミが埋まり、海は濁っている。 それでも申し訳程度に掃除はされており、裸足で歩いても怪我をするようなことはなかった。 小さな頃、海で泳いだ覚えはあるが、どちらかと言えば潮干狩りの記憶の方が多い。 大人になってからは、近づきもしなくなった。 それでも、なんだか懐かしい心地で砂浜まで降りる。 造船会社の船だろうか、それとも観光用の船なのか、疾走している白く大きな船影が遠くに見える。 あとは釣りをしているのか、ちらほらゴムボートが浮いていた。 ただ、釣りのひとたちはもう引き上げ時なのだろう。帰還の気配が強い。 アマクサ美装は今日から盆休みに入る。 休暇初日になぜ、雪虎が地元の砂浜でぼんやり立っているのかと言えば。 ―――――じゃ、浜辺で待ち合わせね。 そう、ここで待ち合わせている相手がいるのだ。 スマホの向こうで、声を弾ませた相手のことを思い出す。 浜辺、などと言うから、どこの有名処だ、と雪虎は考えたが、すぐに思いつかず。 当然、尋ねた。 ―――――浜辺ってどこのだ。 とたん、困惑したのは相手の方だ。 ―――――そりゃトラさんの地元の。 その返事に、雪虎は相手以上に困惑した。 (こんな、どちらかと言えば汚い海で待ち合わせって) そんなの、すぐにわかるわけがない。 なにせ彼―――――恭也とこの光景は、ひどくそぐわなかった。 もちろん、地元を卑下するわけではないが、こういうせせこましい空間に、あの自由な男は似合わない気がしたのだ。 ちなみに。 言われるままに来たはいいものの、恭也はどうやってここまで来るのだろうか。 だいたい、普段あの死神はどういう方法で移動しているのか。 そして、浜辺と言っても広い。 (どのあたりか、とか聞いておべくだった…か…) 今更ながら、自分の間抜け加減に気付いた。 からかわれただけかもしれない。 まさか恭也が、雪虎の面倒な頼みごとのために骨を折るわけがなかった。 なぜ今日、雪虎が恭也と待ち合わせなどすることになったのかと言えば。 数日前雪虎は、悩んだ末、恭也へ連絡を入れるなり、こう尋ねている。 ―――――魔女と会う方法を知っているか。 知っているなら教えてくれ、と。 どうして恭也だったのかと言えば。 こんなことを聞いて、教えてくれそうな相手を、雪虎は恭也以外に思いつかなかったからだ。 (けどそれでいいのかもな) 五分、ぼんやり潮風に当たっていた雪虎は、へんに落ち着いた気分で思う。 魔女という存在の危険さは、大河やさやかから教えられた。 だが彼らは、口をそろえて言ったものだ。 雪虎は月杜だから、と。 初耳だったが、危険な魔女は、どういうわけか、月杜を恐れているらしい。

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