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日誌・120 花束

(でも魔女なんて存在、誰からも聞いた覚えはない…よ、な?) 思うなり、うっすらと記憶の片隅で、何かが泡のように浮かんできた。 それは、先代の声だったか。彼が、小さな雪虎に、何かを言っている。 だが、彼の言葉は、しっかりつかむ寸前、消えてしまった。 しばし、思い出そうと努力したが、もう記憶の影すら見当たらない。 諦め、雪虎は正体の知れない魔女という存在に、思いを馳せた。 相手には迷惑だろうが少し、聞きたいことがあるのだ。 思い起こせば、あの時聞いた魔女の声にも、恐怖が満ちていた気がする。 雪虎は、その理由が知りたい。 果たして彼女はどうやって、あの状況で、雪虎を月杜と見分けたのか。 もとから、雪虎のことを知っていた? 月杜の人間だと。 それならそれで、話は終わる。 だが…もし、知らなかったなら。 だいたい、あの暗がりの中、雪虎の顔など正確に見えたのだろうか。 だとしればどうやって、雪虎を月杜と判断したのか。 その基準を知れたなら。 雪虎は、拳を強く握りしめた。 (もしかすると、祟りの正体が見えてくるかもしれな) 「久しぶり、トラさん」 刹那。 真後ろから、声。 驚きに、一瞬、雪虎の息が止まった。前を向いたまま、つい、雪虎は半眼になる。 (まともに現れるとは思わなかったけどな?) こんな砂浜で、足音も気配もなく背後に立つとはどういうつもりだ。 まず、せめてもう少し離れた場所から、声をかけるべきだろう。 それでも無理を聞いてもらう立場だ。 久しぶりに会うなり、叱りつけるわけにはいかない。 怒りを、ため息で吐きだし、 「ああ、久しぶりだな、殺し、屋」 振り向くなり。 ―――――バサッ。 胸元に、何かを押し付けられた。 反射的に受け取れば、甘いにおいが鼻先をくすぐる。 甘い…これは、花? 瞠った雪虎の目に、滲むような真紅の色彩の正体は、バラの花束。 いったい、何本束ねられているのか。 男の雪虎でさえ、抱えるのが一苦労の大きさだ。 (へ?) 呆気にとられた雪虎の視線の先。 バラの花束の向こう側には、映画の中にでも迷い込んだのかと見る者に思わせるほど整った容姿の男が口元に笑みを浮かべて立っていた。 背景の夏空、そしてサングラスが嫌味なほど似合う。 なにより、彼が立っているだけで周囲の空気さえ変わった心地がする。 ああ―――――と雪虎はなんだか納得した。 まわりの景色や雰囲気なんてどうでもいい。 風見恭也がそこにいれば、彼の存在が、もう一個の世界なのだ。周りが彼に合わせてくる。 なんだか一方的に負けた気分で雪虎が恭也を見上げれば、 「ほらこっちだよ、トラさん、すぐ出発しないと間に合わなくなる」 「え、…おいっ」 いきなり片手を取られ、雪虎は危うく花束を取り落としそうになった。 お構いなしに、恭也は雪虎の手を放すことなく歩き出す。 花束をしっかり抱え、抱えることで逆に、花に邪魔され、周囲が見えにくくなった雪虎はおぼつかない足取りで恭也に従った。 「どこに行くんだ」 いやそもそも、今、恭也はどこからきたのか。 そして、なぜ。 …………………花束なのか。 聞きたいことが、わっと湧いてきて、逆に言葉が出てこない。 「どこって」 不思議そうに、恭也が振り向く気配がした。 とたん、雪虎の状況に、だろう、ぷ、と笑いを含んだ息をふき出す。 「…わあ、花束でトラさんの顔が見えないや。邪魔なら捨てれば?」 自分で渡しておきながら、この言い草。 いかにも、風見恭也である。雪虎は唸った。 「花がかわいそうだろうが」 モノは大事にしろ。言外に言えば、恭也はなぜか嬉しそうに言った。 「捨てないってことは、あ、気に入ってくれた? よかった、たまには助言も聞くもんだね」 助言? 雪虎は胡乱な心地で顔をしかめた。 つまり誰かに何かを言われて、恭也はこの花束を持ってきたというわけか。 どんな言葉を、どう思って真に受けたのか。 だれだ、ソイツは。知ってたら、今すぐシメるのに。 「なんで花束なんだ。しかも、こんな大きな…これから出かけるんだぞ、俺たちは」 言えば、すれ違った親子連れが奇異の目でこちらを見ながら通り過ぎた。 いつもなら嫌悪で顔を背けられるはず…と思いさした雪虎は、そう言えば、と目の前を行く背中を花越しに見遣る。 なるほど、恭也と共にいるから、互いの体質が打ち消されているのだ。 ということは。 大きな花束を抱え、男と手をつないで歩いているこの光景を、遠慮なく周囲から見られているというわけだ。 自身のあまりの状況に、雪虎は顔に血が上るのを自覚する。 「そりゃ、トラさんのご機嫌取りに」 周囲の目など、まったく気にした様子もなく、恭也。 たちまち、雪虎は不機嫌な顔になる。 「俺のご機嫌取らなきゃならないような、何をしたんだお前は」 花束は、何のごまかしだ、と低い声で尋ねれば、恭也はキョトン。 「強いて言うなら、ぼくはただトラさんのご機嫌を取りたい」 「? ? ?」 今度は、雪虎は憮然となった。恭也の言いたいところが分からない。 それを察したのだろう、 「わからない?」 なぜか楽し気に、恭也。雪虎は頷いた。 「分かるように言え」 促したが、恭也は肩を竦めただけだ。 「とりあえず、花を捨てる気がないなら、飾っておこうか」 「…わかった、じゃあ一旦、俺の部屋に」 「戻ってる時間なんてないよ。すぐ出発しなきゃ」 恭也は足を速めた。 「飾るなら、ボート内にして」

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