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日誌・122 くすぐったい
魔女たちは恭也の中の悪魔に興味を持っている、と言った。それは。
不吉な印象を雪虎に与えた。
ただ。
この予感を、本当に気にするなら、ボートに乗っている間に、引き返すべきだった。
詳しく聞いてしまった以上、雪虎の望みと、恭也の身の危険を引き換えにはできない、と。
今更になって迷い、まごついている雪虎は。
(潔くない)
思っているうちに、二人は城の門扉を潜った。
今、歩いているのは前庭と言ったところだろうか。
暗いが、庭木が丁寧に剪定されている様子は、よく分かる。
足元は石畳。
長く続いているこの道を辿れば、城の玄関口に行き当たるのだろう。
近くではないが、前に、後ろに、ランタンらしい明かりが見えた。
まだ十分、引き返す余裕は…時間はある。雪虎は恭也を横目に見遣った。
もちろん、この死神相手に世間一般で言うところの『危険』が、そのまま通じるとは思えない。
他者と会うだけで、相手を破滅させる存在だ。
この世に、そんな存在を害す、どんな方法があるというのか。
被害に遭いたくなければ、せいぜい一生懸命避ける以外、雪虎程度では思いつかない。
だが、魔女は、そんな存在を。
(ディナーに招待するほど豪胆)
それだけでも、十分、警戒に値する。
前を向いたまま、恭也は平気な声で答えた。
「手は打ってあるよ」
ここで詳細は話せないけど、と告げた恭也の声は、ひどく好戦的だ。
雪虎は眉をひそめる。
…手は、打ってある。その言い方に、引っかかったからだ。
やはり、恭也も―――――読んでいるのだろう。
魔女の元へ訪れることは、ただ自身が周囲に破滅をもたらすだけの結果には終わらない、と。
行けば、彼の身にも、なにがしかの危険が及ぶ、言外にそう言われた気がした。
にもかかわらず。
予知できない危険、それが。
(…楽しそうだな)
恭也にとっては得難い玩具のような雰囲気もあった。
月夜によく映えるうつくしい面立ちには、遊園地に行く子供めいた無邪気さが浮かんでいる。
その目が、ふと雪虎を見遣った。
「ああ、そうか。…誘ったのはぼくだから、ぼくは気にしてなんかないけど」
何かに、今やっと気づいたと言った態度で、恭也。
「トラさんはぼくを利用した気分でうしろめたいんだね」
察したなら、その時点で止めておくべきだ。
口に出すのが、恭也である。
とはいえ、ある意味で、雪虎は恭也のそう言う部分に救われてもいた。
「そうだよ。だから、みっともない悪足掻きだってする」
雪虎が正直に言えば、
「みっともないなんて思わないよ。ただちょっと、トラさんのそういうところは…くすぐったいって言うか」
否定的ではないが、一瞬、微妙な表情になる恭也。
すぐいつもの調子に戻って、
「まあ、それはそれでぼくにとってはおいしいかな」
「冗談言ってる場合か」
反射で雪虎は返したが、なんとはなしに察してしまう。
(おい、これは本気だぞ…)
呆れて半眼になった雪虎の顔を、不意に恭也が覗き込んだ。
思わず立ち止まる。咄嗟に半歩後退し、顎を引いた。
「なんだ」
不機嫌に応じれば、真剣な顔で、恭也。
「ぼくと会うの、本当は嫌だった?」
「なんでそうなる」
魔女に会いたいと願ったのは、雪虎だ。
恭也はそれを叶えてくれる立場である。
そこに、嫌だの良いだのと言う意見が入る余地はない。
「だってさ」
少し言いにくそうな、拗ねた表情で恭也。
「今日はトラさん、会った時から元気ないよね」
雪虎は目を瞬かせた。
なかったか。元気。いや、それはともかく、確かに、いつもとは調子が違うのは事実だろう。
(あのひとに会ったせいだな)
良くも悪くも変化があった。
雪虎の中で。
だがまさかそれを。
(コイツに気付かれるとは、思わなかった)
目を逸らしそうになり、寸前、踏みとどまった。
「…これはお前のせいじゃないし、うん…、無理を聞いてもらえたことには、感謝してる」
真っ直ぐに、伝えれば。
「ぼくとしても、無理してるわけじゃないよ」
納得したのかしていないのか、恭也は表情も変えず、身を放す。
また城へ向かって歩き始めた。雪虎も後に続く。
「魔女の誘いに応じることは、最高の暇潰しなんだ」
魔女という危険に対する深刻な心構えを、馬鹿にしきった声音で恭也が言った刹那。
「―――――日本語だけど、そのふざけた物言い…嘘でしょ」
雪虎たちの歩調が速かったか、近づいてきていた、先を進むランタンが、動きを止めた。
女の声。
日本語だ。
いや別に、ランタンが喋ったわけではない。持ち主がいる。
暗くてよく見えないが、ドレスを着ているようだ。
「まさか、死神…っ? まだ城にも入っていないのに、あなたが騒ぎも起こさず普通に歩いてるってどういうこと!」
それはおそらく、雪虎が近くにいるからだ。
恭也と雪虎が近くにいれば、互いの体質を抑制―――――打ち消すことができる。
恐怖に震える女の声にかぶさるように、彼女の隣から、英語らしい言葉が戸惑ったように発された。
相手の戸惑いを打ち払うように、
「オリビアみたいに、日本語で話してよ、グレース」
恭也は明るく言う。とたん、厳しい声が返った。
「グレースは日本語話せないわよ」
「そうだっけ」
言うなり、恭也はランタンを眼前に掲げる。
とたん、しり込みしながらも立ち止まっていた二人の女の姿が、無遠慮に距離を縮めた恭也のランタンの明かりにさらされた。
立っていたのは、ドレス姿の若い女性二人。
二十歳は過ぎているようだが、雪虎よりは下だろう。
暗闇の中でもおぼろに見える髪や目の色、顔立ちから、日本人ではない。
分かるのはそれ位だ。
知り合いなのか、恭也に遠慮はない。
「オリビア、今日はキミひとりなの? パートナーは?」
彼に対し、警戒に身を縮めながらも、オリビアと呼ばれた彼女は恭也を無視したりはしなかった。
「こうして直接会って話すのは初めてよね。あの人と付き合いがあるから、電話では何度か話してるけど、…彼は店番よ」
彼女は幾分、背が低い。
そんなオリビアの背後に隠れるようにしているグレースは、細身で長身だ、隠れ切れていない。
「それにしたって、いったいどうなってるの?」
オリビアは胡乱に恭也を見上げた。
「…首輪もついてないのに、あなたと普通に対面して、普通に話せるなんて」
―――――首輪?
まじまじと恭也の喉元を見上げ、助けを求めるように、栗色の髪の、しっかり者だが柔らかな雰囲気の女性が、雪虎に目を向けた。
「黒百合、悪魔の力を制御する何か新しい方法でも見つけ…黒百合じゃない!?」
言葉途中で、雪虎をちゃんと視界に収めるなり、オリビアは頓狂な声を上げる。
…反応が賑やかで面白い子だ。くるくる表情が変わる。
とりあえず、ようやく気付いてもらえた雪虎は挨拶した。
「はじめまして、八坂雪虎と言います」
言った後で、どうでもいいことが気になる。ユキトラ・ヤサカと言うべきだったか。
「トラさんトラさん」
とたん、生真面目な雪虎に恭也は苦笑。
「どうせ今後の付き合いもしないんだから、律儀に挨拶する必要ないって」
「随分ね」
オリビアは半眼になる。雪虎もため息。
「挨拶は基本だろ」
大きく頷いたオリビアが、恭也を睨んだ後で、雪虎に愛想よく微笑んだ。
「ご丁寧に、どうも。私はオリビア・エバンズと申します。それからこちらが…」
「だからいらないって。ああ、トラさん、そっちがグレースね」
オリビアの挨拶をちょきんと切って、怯えた様子で黙り込んでいるグレースを見遣り、恭也は言った。
「いたのがグレースの方で良かったよ。イザベラだったら最悪」
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