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日誌・130 残念な話
本気で怒鳴った。
危機感からというより、とびきり悪趣味な冗談に対する常識人の態度で。
言った後で、何まともぶってるんだ、と乾いた気分で我に返る。
雪虎だって、決して真っ当ではない。
そんな思考を、どこまで、恭也は読み取ったのか。
子供のように無邪気な態度で、恭也は笑った。雪虎はぞっとなる。その態度で、分かった。
恭也にとって、これは子供の悪戯程度のことなのだ。なにより。
彼は楽しんでいる。雪虎がろくな抵抗もできない獲物であることを。
どうやって弄ぼうか、と舌なめずりして。
何かおかしい。
普段の恭也ではない。
いや、そもそも雪虎の知る『普段の恭也』は、他にとってもいつも通りの風見恭也なのだろうか。
(俺が知る限り、…いつもと違う、モノと言えば)
雪虎は、上階の魔女たちを意識した。
(俺と離れたちょっとの間に、…ここでなにがあった?)
いやいつもの、魔女からの恭也への招待とは、一体何を指すのか。
詳しく聞かなかった自分に、臍を噛む。
「いったい…、どうした」
確かに恭也は滅茶苦茶な男だ。
それでも彼なりに、今まで、雪虎には筋を通そうとしていた。というのに、今は…なにか―――――自棄になっている、ような。
いや、解き放たれた、ような?
聞いたところで、素直に答えるかどうかは分からなかったが、―――――果たして、恭也は。
「ぼく、トラさんに気に入られようと頑張ったけどさ…」
言いながら、恭也の唇が雪虎の頬に触れた。肌を舐め上げられる。
「そう言えば、そんなの今更だったな、と思って」
ぞわ、皮膚が粟立つ。
感情が伴う反応ではない。生理的なそれだ。
堪えながら、できるだけ落ち着いた声で雪虎は再度尋ねた。
「いまさらって…何がだ」
恭也にはまだ、雪虎と会話をしようと言う気はあるらしい。ならばそこから…できないだろうか。状況の、打破を。
返ってきたのは、拗ねた声だ。
「言っても無駄だよ」
恭也は雪虎の首筋に、鼻先を埋めた。
すぅっと、息を吸いこむ。
うっとりした吐息が、雪虎の肌を這い落ちた。ぞくり、と背筋が震える。
「…いいからっ、言ってみろ」
促せば。
ふと、感情の抜けた声が返った。
「殺人鬼は嫌いなんだよね?」
―――――は?
雪虎は呆気にとられた。つまり、この状況は。
―――――ぼくの存在を拒絶してる?
先ほどの恭也の言葉に、すべて、返ってくるのだ。
刹那。
ぐわっと雪虎の周囲から、妙な圧が殺到してきた。
一瞬、息が止まるかと思うほどの凄まじい威圧。
これは。
(魔女たち…?)
察するに、どうやら彼女らは、雪虎に恭也の言葉に対する否定を迫っている。
それもそうだろう。
先からの恭也の宣告が本気なら、ここでもし―――――考えたくもない話だが―――――雪虎が恭也の『女』にされた後は、…彼女たちが潰される番だ。
なら、抗している間にも、逃げればいい、と雪虎は思うのだが。
どんな事情があるのか、彼女たちに動く気配はなかった。
雪虎は苦い表情で、目を伏せる。
―――――非常に残念な、話だが。
雪虎は嘘がつけない人間だった。
殺人鬼は嫌いか? そんなの、
「…認められないに決まってる」
雪虎は、強く言い切った。
できれば関わりたくない。
特に、金をもらって他者の命を終わらせ、その手を血で汚すことを仕事にしている者など。
…肯定、できるはずはなかった。
ただ、そう、することでしか生きていけなかった、ならば。
生きようとした結果、ならば。
―――――また、話は別になってくる。
「ふうん」
恭也が、気のない声を放った。刹那、雪虎の首筋に。
「―――――…ぃっ」
恭也が噛みついた。いつかのように。
立てられた、歯が。次第に強く、食い込んでくる。
…ここで。
怯むな、と雪虎は自身を鼓舞した。
「まさか、お前」
雪虎は毅然とした口調で尋ねる。
「自分を、殺人鬼に貶めて考えてるんじゃないだろうな?」
ふ、と噛み付く力が弱まった。
雪虎の言葉が意外だったのだろうか。
恭也の表情が見えない以上、彼が何を考えたのかは、雪虎には分からない。
恭也の背を、引っ張って、引きはがそうとしていた手で、そっとその背を撫でた。
抱きしめる。
殺人鬼、と一言でまとめてしまうには、風見恭也という人間はあまりにも。
「お前が今ここにこうして立っているのは、生き残ろうと戦った結果だ」
恭也のように生まれたなら、きっと、普通の心の持ち主は、死にたくなる。
自身が欠片も望まぬ不幸を、破滅を、歩くだけで周囲にばらまいて。
恭也は、皆から疎まれたろう。
憎まれたろう。
死を、望まれたはず。
必然的に、一人ぼっちにならざるを得ない状況に、どれだけの人間が耐えられるのか。
狂わないでいられただけ、上々だ。
性格が歪むくらい、何だというのか。
―――――恭也は。
『悪魔』の重みに沈まなかった。
生きることは放棄しなかった。どうにか踏みとどまった。不吉を抱えながらも生きようとした。
そして、見つけた。
―――――手段を。
それが今の、恭也の仕事、だとして。
…これの何が悪い。
「俺はお前が生きていることの方が嬉しいよ」
たとえ、恭也の命を世界中が呪っていても。
もちろん、雪虎は知っている。恭也は殺しを生業にしている。
そこは、知っていても、受け容れられない。
これからも、彼は殺すだろう。だが。
「俺はお前が好きだよ」
受け入れられないところも全部ひっくるめて―――――風見恭也なのだ。
死神。
悪魔。
そんな名称の影に隠れてしまっている、一人の人間。
いつしか雪虎は、そんな彼を見つけてしまったから。
雪虎は、決して、恭也を嫌えない。
はじまりからして、とんでもなかったが。だいたい、会うたびに、いつ殺されるかもわからない状況だったのだし。けれど。
それも今となっては、いい思い出だ。
…などと、本気で思っているとさやか辺りが知ったなら。また、小一時間は説教を食らいそうだが。
この悪魔憑きの殺し屋と出会ったことを、なかったことするつもりはない。
「…ぇ…」
恭也の喉から、とても彼のものとは思えない、頼りない声がこぼれた。と思った、刹那。
がっと正面から肩を掴まれる。
「ほ、本当に!?」
身を放し―――――かと思いきや、鼻がくっつくような間近で、恭也が尋ねてきた。
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