130 / 197

日誌・129 歪んだ宣言

どれほど嫌いな相手でも、死ぬと考えれば、胸の奥が、氷みたいに冷たくなる。 自分自身の命が一部、もがれるように。 それは、妹が自殺した衝撃のせいかもしれないが。 分かっている。知っている。恭也は殺し屋だ。他者の命を奪うことが仕事。 すべて承知で、雪虎は恭也との付き合いを続けてきた。取引と称して。死者の影を彼の背後に感じながら。 その、暗黙の了解に、今。 わずかな綻びが生じた。 …殺すな、と恭也に告げることは。 「ねえ、それってさ」 いっきに、退屈そうな目になって、恭也は紺碧の目で雪虎を見下ろした。 「―――――ぼくの存在を拒絶してる?」 …そういうことにも、つながるのだろう。雪虎は一度、強く目を閉じた。 拒絶。否定。 確かに。 だが、一部分だけを受け入れられないからと言って、雪虎は。 恭也のすべてを拒絶はしない。正確には、できない。それは、無理をしているわけではなくて、…誰だってそうだ。 他人と向かい合った時、相手のすべてを丸ごと全面的に肯定し、受け入れられる人間がいったいどれだけいるだろう。 これは何も、特別なことではなかった。恭也のことだってそうだ。 特殊ではあるが、特別ではない。 すぐ、雪虎は顔を上げ、恭也と目を合わせる。刹那。 「トラさんがどう思っていても、ぼくに対して悪く思う必要はないよ」 恭也は、雪虎の言葉を遮るように、優しげに言った。微笑む。 だが、妙な凄みがあった。許すようで、受け容れるようで、―――――まったく質の異なる微笑。 「トラさんがぼくをどう思っていようと、ぼくの気持ちには関係ないことだから」 それは一見、純粋な強い気持ちを抱いているようで。 とびきり歪んだ宣言だった。 つまり、…もし、雪虎が―――――恭也を受け入れられないとしても。 一方的に関係を続ける。…そういう、宣言だ。逆もまた然り。 思わず、雪虎は思い切り渋面になった。 「殺し屋」 咎める気分で呼べば、恭也は笑顔のまま―――――雪虎に腕を伸ばした。ごく自然な動き。だが、 「困ったな。どうしたら、見逃してくれる?」 嫌な予感に、雪虎は咄嗟に身を翻す。 「決めたんだ、魔女たちは潰すって」 ただし、残念ながら少し、雪虎の行動は遅かった。 「…痛っ」 恭也が、雪虎の腕を掴んだ。背中へ、ねじり上げられる。そのまま、不可視の壁らしきものに叩きつけられる―――――と感じた刹那。 パチ、ン。 また、何か、泡が弾けるような感じがあった。 「…あ?」 面食らったのは、雪虎だけではない。恭也もだ。 揃って、階段の上へ転がった。転がり落ちる、寸前。 恭也の腕が、雪虎を支える。 おかげで、雪虎の服にもじっとりと血が染みてきた。それが気にならないくらい、雪虎は面食らう。 なにかそこに、不可視の壁があったと思うのだが。―――――消えた? 「え、今の、いったい」 思わず恭也の腕にしがみついた雪虎が、目を瞬かせれば。 「はは…っ、すごい、トラさん最高」 恭也が、呆気にとられたように乾いた笑いをこぼした。 この男でも、驚くことがあるのだな、と雪虎も驚いた。刹那。 「信じられない…!」 「どうやって」 「何が起きたんですのっ」 「結界が」 「…消滅した…っ?」 「しかも、触っただけで!」 「ありえないっ」 魔女たちが口々に囁きを交わす。日本語ではなかったから、雪虎は何を言っているのか理解できない。 雪虎の目の前で、恭也が楽し気に笑った。 「分かるかな、トラさん、あなた今」 恭也は雪虎を腕に抱えなおす。立ち上がり、その上で。 花束みたいに抱え上げた。 「は…っ? ちょ、おい」 雪虎の体重を、ものともせず、軽々と。 意表を突かれ、すぐには文句も出ない。 絶句した雪虎を、満面の笑みで、恭也は覗き込んだ。 「魔女どもの結界を、消滅させたんだよ。紙を破るくらい簡単に」 「けっかいって」 オウム返しの言葉は、質問ではない。無意識に呟いただけだ。恭也は頷いて受け流す。 「不思議だね? 今、ぼくがそばにいるから、月杜の祟りの力は働いていない…ってことは」 探るようでいて、秘密の宝箱でも覗き込むような眼差しで、恭也は雪虎の目の奥を見つめた。 「トラさんそのものに、そういう力が備わってるのか」 「…なんだって?」 恭也の言葉を理解はできない。できない、が。雪虎は思い出す。 そう言えば、雪虎の体質と恭也の体質はその特性を、共にいることで打ち消し合うのだ。 思い出した雪虎は、恭也の顔を見直した。 恭也の今の物言いから推察するに、この事実は、それは互いの本性ではない、ということにつながるのだろうか? では、打ち消し合った結果、そこに残ったモノこそが、―――――おそらくは互いの本質、だと? ただ、それについてゆっくり考えを巡らせる暇はなかった。 「ツキモリ…っ?」 恭也の言葉に反応し、さわさわと魔女たちのざわめきがさざ波のように広がり始める。 「いえ、まさかツキモリが魔女の宴に参加なんて」 「それにツキモリの気配なんて欠片も」 ふ、と温度の抜けた声を放った魔女たちを見上げ、恭也は非現実的なほど整ったその面立ちから表情を消した。 「やっぱり、うるさいな」 真っ直ぐ雪虎に向いていた紺碧の瞳、その視線が、横へ流れる。 恭也が階段を上がるごと、不穏な気配が強まった。 恭也の腕に抱え上げられたまま、雪虎は慌ててその肩を掴んだ。 「よせ」 「なにを」 言いにくかったが、迷うことなく雪虎は繰り返した。 「殺すな」 対する恭也は、と言えば、 「殺さないよ?」 堂々と、嘘をついた。雪虎は頭痛を覚える。 「嘘つけ」 どうしてこの男は、こうもきれいに嘘をつくのだろう。 「困ったな。どうしたら、ぼくのしたいようにさせてくれる? …ああ」 ―――――また、話が元に戻ろうとしている。 どうも、恭也は今、たいそうブチ切れているようだ。魔女たちはいったい、なにをしでかしたのか。 恨み言をお経のように読み上げたい気分を押し殺し、とにかく、この死神をどう止めるべきか、思考を巡らせた時。 すとん、と雪虎は恭也の腕から降ろされた。ここで恭也を解放しては最後との予感から、慌てて手を伸ばせば。 「ぼくの女にすれば従ってくれるかな」 (…は?) 逆に、腕を引き寄せられた。 腕の中、深く抱き込まれた刹那。雪虎の足の間に、恭也の身体が割り入ってくる。 「なにを」 逃げようとした腰に、腕を回された。ぎゅうと引き寄せられ、同時に。 恭也の腰を、押し付けられる。 やたらと淫猥な動きだ。 ―――――壮絶に重い沈黙が、周囲に立ち込めた。 「…っおい!」 「いやなら抵抗していいよ。止めないけど」 足を動かそうと力を入れようとするなり、恭也の腰を締め上げるような格好になり、うまく動けない。 せめてもの抵抗に、雪虎は、恭也の背中側に回っている腕で、彼の服を思い切り引っ張る。 「どういう冗談だ…っ、俺に、妙な見世物になる趣味はない!」

ともだちにシェアしよう!