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日誌・128 答えが出ない問い

× × × 「…なんだ…コイツ」 倒れ込んだ扉の上。 大の字に伸びている男の姿に、雪虎は目を瞬かせた。 男…そう、男のはずだ。そして、おそらくは―――――人間。 だが、どう説明すればいいものか、『おそらくは』という範疇には入っても、確実さがない。 少なくとも獣ではないが、…なんだか、空っぽの人形と言ったほうが近い気がする。 妙な仮面を被っているのもまた、異様な印象を見る者に与えた。 『ソレ』はタキシードを着ていた。 ただ、助け起こすのは躊躇われる。 掴んだ手が陶器や木材だったりするとホラーだ。 考えた結果、雪虎は見なかったことにする。 多少、腕や足が変な方向へ折れ曲がっていても、何、死にはしない。 周囲に、恭也の姿はなかった。となれば。 (中) 雪虎は、一瞬、躊躇う。 すぐ、思い切って顔を上げた。進む。中へ。とたん。 (…ん?) 中へ踏み込んだ、刹那。 泡が弾けたような感覚を、身体に覚える。 (なんだ) 振り向いたが、何もない。だが、その感覚をずっと追っている余裕はなかった。 甲高い女の悲鳴が、幾重にも重なって、鼓膜を殴りつけてくる。 ぎょっとして視線を城の中へ戻せば。 ―――――ぐちゃ。 濡れ雑巾でも床に叩きつけたような音がした。 直後、鼻をつく鉄錆に似た匂い。 大理石の床の上、そこここで倒れ込んでいる身体が見えた。 中には、獣のものもあるようだ。 その、中央。 むくり、と一つの影が起き上がる。 とたん、操られたかのように、周囲を切り裂くようだった悲鳴が止んだ。 身を起こした危険な獣、その注目を避けようとするかのように。誰かが動く気配もなく、咳一つしない。息すら潜めているようだ。 全ての意識が集中する、ホールの中央。 まるで最初から彼一人しかいなかったかのように、すっと立ち上がったのは。 「殺し屋」 風見恭也だ。 雪虎の呼びかけは、やたらホール内によく響いた。 ただし、呼びかけた、ものの。恭也の姿に、つい雪虎は顔をしかめる。 ―――――血塗れだ。 勿論、スーツに乱れ一つない。髪にも、崩れはなかった。ただ。 ホールの床の上、そこここに転がる肉体に、命の気配はない。 雪虎だって、ちゃんと知っている。この男が、何を生業としているのか。 ただ、今まで、意識してか、していないのかは分からないが、恭也はこんな風に、自身の行いを雪虎に対してあらわにしたことは一度もなかった。 …正直、雪虎は。 『死』が辛い。 怖い。 痛い。 だから。 ―――――誰かを殺す、殺される、という行動にも、強い忌避感がある。 誰かを殺すくらいなら、殺された方がましだ。 いい子ぶっているわけではない。単に、できない。無理なのだ。つまり、雪虎が臆病な腰抜けというだけの話。 とはいえ。 正直なところ、雪虎は自分が殺されそうになった時、自身がどう出るか、分からない。 その場面になってみないと、これは答えが出ない問いだった。そして。 素直に殺されるより、生きようと、最後まで足掻く人間の方が、雪虎は好きだ。 ただ、こうして目の前に『死』を突き付けられると。 竦む。 必死に怯えを堪え、ヒリつく緊張の中、雪虎は視線を上げた。 華やかなドレスの裾が、あちこちから覗いているが、着ている者の姿は見えない。 ただ、相手が興味津々でこちらの様子を窺っていることは分かる。 嫌な視線を払うように、自身の首筋辺りを撫で、疲れ切った心地で雪虎は恭也に声をかけた。 「俺の用事は…一応、済んだ。お前の用事も済んだんなら、…帰るぞ」 ぶっきらぼうに言えば、 「トラさん」 そこではじめて雪虎に気付いた態度で、恭也は顔を上げた。 にこり、いつものように、微笑んだから―――――そのまま、雪虎の後をついてくる、そう、…思ったのに。 「ちょっと、待ってて」 ふらり、恭也の身体が傾ぐ。一瞬後には、駆け出していた。上階へ向かって。 たちまち、上階で逃げ惑う気配が強まった。 「うそ、こっちくる!」「平気よ、結界があるんだから、すぐには」「時間の問題ですわっ」「なにせ相手は」 女たちの、呪わしげな声が重なる。 「―――――悪魔!」 ただし、日本語ではないから、雪虎には分からない。 「ごめんね、トラさん」 周囲の声が聴こえてないかのように、ひょいと階段を駆け上がった恭也は、その半ばで立ち止まった。 何かを探るように、手を伸ばす。 「ぼくの用事はまだ済んでなくって…すぐ、片付けるから」 まだ全部お使いが終わってないんだ、そんな風に子供が言うのと同じノリで呟く。 「おい、殺し屋」 何をするつもりだ、と声をかければ。 「だいじょうぶ」 恭也は笑顔で、返事になっていない返事を返した。 いつも通りに見えるが…、なぜだろう。 恭也が浮かべた無邪気な微笑に、雪虎は心底ぞっとした。 「命を摘み取るのなんて、本当に簡単なんだ」 恭也は拳を握り締める。 それを振り上げるのを見るなり、雪虎は駆け出した。 ここで恭也を止めなければ、惨劇が起きる。そんな予感に突き動かされて。 振り下ろされた、拳は。 なにか、透明なものにぶち当たった。 ひび割れに似た輝きが、恭也の拳を中心に空中に広がる。 「ふむ」 何らかの実験でもしている態度で、恭也は頷き―――――、 「あともうちょっと、かな」 どこか見下す表情で、再度拳を振り上げた。…振り下ろす、寸前。 「よせ」 殴りつけられるだろう場所を先読みした雪虎が、そこに回り込む。案の定。 恭也の拳は、雪虎に落ちる直前に、止まった。 というか、彼の拳がいつ振り下ろされていつ止められたのか、雪虎には視認できなかった。ただ。 今、『何か』にヒビを入れた力が、悪魔のものならば、雪虎が近くにいれば、その力は使えないはずだ。 こうして立っているだけでも、雪虎は抑止力になるはず。 「やだな。危ないよ、トラさん」 また、恭也はにこにこと微笑んだ。こうして笑っている、内は。 恭也は雪虎に何か危険なことをするつもりは、ないだろう。だから。 雪虎はこのまま、恭也のやりたいようにやらせるべきだ。 誰がどこで何人死のうと、雪虎には関係ない。 邪魔をすれば、―――――それこそ、雪虎の命が危なくなる。 これは、利口な選択ではない。だが。 雪虎は、苦しい表情になりながらも、毅然と告げた。 「俺の目の前で、誰かを殺すな」

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