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日誌・127 逆鱗

これ以上一緒にいては、彼女の心が危険な気がする。 それに、彼女が新婚と知っている以上、…もうひとつ、危険な可能性があった。 知らず、視線がオリビアの腹部に向く。 雪虎は顔をしかめた。また、一歩後退する。 少しでも、オリビアが安心できるように。 まさか、恭也と離れることで、魔女からこれほど顕著な反応を引き出してしまうとは思ってもいなかった。 「俺が聴きたいことは一つだけです」 雪虎は早口に尋ねる。 「俺の中にある『それ』は、俺から取り出せるものですか」 オリビアは、心底ぎょっとしたように、緑の目を瞠った。 一瞬、彼女の息さえ止まる。 それほど意外な質問だったろうか? 刹那、オリビアの大きな瞳から、涙が一粒、転がり落ちた。 「ゆ、許して」 同時にこぼれ落ちたのは、許しを請う声。 懇願するように、オリビアはその場にひれ伏す。 その姿に、雪虎が思い出したのは、正月に月杜家で見る光景だ。 ―――――ひれ伏す親戚たち。ただ一人、それを見下ろす月杜家の当主、秀。 さぞかしいい気分なんだろうな、と皮肉に思ったこともあるが。 (…そんな、いいもんじゃないな…) 雪虎が抱いたのは、こんなことをオリビアにさせた、酷い罪悪感と、後悔だ。 どうやら雪虎は、魔女に関わるべきではないらしい。 今後はそうしよう、と心に決めたものの―――――今はまだ、退くわけにいかなかった。 (知りたいこと、聞きたいことが、あるんだろう、雪虎) 重い気分で、一歩踏み込む。 「許せ、とは…それは、どういう意味です」 なにより、この場で引いては、ここまで来た意味がない。オリビアは、ひくつく喉から必死に声を絞った。 「できないから、です…仮に、できたとしてもっ」 雪虎が何かを言う前に、オリビアは言葉を継いだ。 「『ソレ』を制御する術は、ないの! あ、あなたが、天寿を全うして、『持って行く』ことでようやく、浄化、され…っ」 途中で、声を出すことすらもう厳しい、と言った態度で、オリビアは息を呑んだ。 雪虎は、一度、唇を真一文字に引き結ぶ。 つまるところ、雪虎は、 (生贄、ってわけか) だから、許せ、と―――――オリビアは真っ先に、乞うたのだろう。 雪虎は、その命でもって、祟りを浄化するために産まれた存在。確かにそれは、聞いた話と一致する。 ―――――つまりは、雪虎は一生、コレと付き合っていくしかない。 そう、最後通告を受けたわけだ。 もちろん、今更、それでショックを受けたりはしない。 もともと、コレとはずっと付き合っていくしかないと思ってはいたのだ。ただ。 (会長を、こんな因習から、解放することはできないのか…本当に?) それが、気になる。 だがやはり、この言葉だけでは、納得がいかない。 オリビアは、どうも、今は恐怖に押し負け、正気が薄れかかっているような気がする。 まともに思考が働いていないのではないか。そんな気がした。 「怯えさせて、大変申し訳ない、のですが」 落胆の気持ちをどうにか振り払いながら、雪虎はさらに言葉を重ねた。 「その結論が変わらない、としても…もう少し、きちんとした説明を頂くことは、可能でしょうか」 諦め半分、雪虎が尋ねた、刹那。 ふ、と鼻先を風が掠めた気がした。 直後。 ――――――ド、ゴオオオオォォ…ッン!! 耳をつんざくような轟音が、突然、周囲の夜闇を乱打した。 雪虎は思わず、耳を両手でふさいだ。 鼓膜が腫れたように痛む。 皮膚が粟立った。 弾かれたように、顔を上げれば。 「…扉がっ?」 先ほど、視界の片隅で閉じられたはずの、城の扉が、どれだけの力が加わったのか、内側から外へ押し開かれ、挙句、蝶番を飛ばし、地面の上に倒れ掛かるところだった。 …すぐさま、また轟音。 観音開きの巨大な扉が、地面へ落ち、派手な土ぼこりを舞い上げ、倒れ込む。 遅れて、埃っぽい風が、周囲を掠めた。 その上に、人影が倒れ込んだように見え、雪虎は血の気が引く。 「まさか」 ―――――恭也? 嫌な予感に、雪虎は慌てて駆け出した。 その背を呆然と見送ったオリビアは、それでも強張った手指を無理に動かし、鞄の中からスマホを取り出す。 持ち込みは可能だ。 使った結果、壊れても自己責任になるが。 覚束ない指先で、スマホを操作する。 普段あまりかけない番号を探し出し、コールすれば、 『―――――だから言っただろう』 長く鳴らし続ければ、相手はどうにか出てくれた。 だが、初っ端の台詞から、うんざりした心地を隠しもしていない。 『北のの誘いに応じるなと』 「…わたしにも事情があるんです、教授」 喉に声をつかえさせながら、かろうじで、オリビアは返答。 小さく震える声に、何を感じたか、相手は口を閉ざした。 蹲り、膝を抱え、小さくなりながら、オリビアは固く目を閉じる。 「大変なことが起きました」 『起きない方がおかしい。…で、何があった』 一度ぐっと奥歯を食いしばり、オリビアは情けないほど小さな声を絞った。 「ツキモリが現れました」 電話向こうの沈黙が、一瞬、虚を突かれたような空白に満ちる。 その空気が、次第に重くなっていく。 『…御方か』 「器です」 オリビアは、地底に沈み込むかのような沈黙に、泣き叫びそうになるのを堪えた。 「その上、最悪なことに、イザベラが悪戯を」 『いらん、知らん、聞きたくもない』 「教授!」 縋るように言えば、電話を切ることだけは堪えてくれたようだ。 「…どうか、ツキモリへ言い訳なりなんなり、フォローを入れてくださいませんか。早急に」 『わたしに死ねと』 相手が唸る。オリビアは必死に懇願した。 「ですが、教授以外では話にもなりません」 『器はツキモリの逆鱗だ。そもそもなぜ、そんなものが魔女の集まりになぞ』 「死神が連れてきました」 電話向こうに、呆気にとられた沈黙が満ちる。 どうやら、天を仰いでいるようだ。 小さくなりながら、オリビアは雪虎が消えた城の方を見遣った。 直に対面することで、思い知った。 真に恐るべきは、ツキモリの祟りではない。 ―――――恐るべきは。 あのような怪物を平気で体内に飼っている、 (ツキモリの器)

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