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日誌・133 飼い主を見つけた子犬

不意に、脳裏を雪虎の声が過った。 ―――――恭也。 だいたい雪虎は、恭也の名を呼ばない。殺し屋と無造作に言う。 恭也だけではなく、基本的に誰に対しても、雪虎は名では呼ばない。 無理やり距離を挟もうとするように。 ただ、乞うて、呼んでもらったことは幾度かあった。 思い出したなら…どうしても、部屋へ向かう足が速くなってしまう。 ただ、雪虎がそこにいる。存在している。それだけで、恭也は満足だ。 雪虎に気に入られたいと思うのは、恭也が行動しやすくするためだ。 プライドなど役に立たないとばかりに、媚びてご機嫌取りだって平気でするのは、その一点に尽きる。 …黒百合に言わせれば。方向性が間違っている、ということらしいが。 意味が分かっていない恭也は満面の笑みで、目的の部屋のドアを開けた。ノックもなしに。 「トラさん、お待たせ!」 振り向いた雪虎は、相変わらず不機嫌な顔で、 「…ノックぐらいしろ」 陰鬱に言った。 城に泊まりたいと望んだのは彼だったはずだが、思い切り、ここにいるのは不本意、と顔に書いてある。 気の毒なほど、嘘がつけない人間だ。 扉を開け放したまま、恭也は片手でドアをノックした。 素直に従ったのに、雪虎は微妙な表情になった。 すぐ、気を取り直した態度で言う。 「おかえり」 …ああ、またこの言葉だ。胸の内側がこそばゆくなって、むずむずする。 「うん」 やりにくい気分のまま、やり過ごそうとしたのに、 「返事は」 するまで繰り返す、そんな気迫で言ってくるから、誤魔化すこともできない。 分かっているが、言うのが恥ずかしいだけだ。 羞恥に内心転がり回りながら、恭也は顔を赤くし、観念したものの死にそうな気分でその言葉を告げた。 「ただいま」 返せばようやく、入れ、と雪虎が手招き。 負けた気分で一杯になりながら、恭也は後ろ手にドアを閉めた。 子供の躾かよ、と雪虎が呟いたのには、聴こえないふりをする。 恭也は、窓辺の彼に向って、無邪気にまっすぐ進んだ。 飼い主を見つけた子犬めいた勢いで。 その間に雪虎は、恭也の姿を頭のてっぺんからつま先まで眺め、 「その恰好で、どこ行ってたんだ?」 胡乱そうに尋ねた。 考えてみれば、恭也は血塗れである。すべて、返り血だ。 もう、血は乾いていた。とはいえ、凄惨な格好であることに違いはない。 雪虎はと見れば。 スーツを脱いでいる。代わりに、パジャマを身に着けていた。シャワーも浴びたか、いい香りがした。 そのとき、恭也らしくない思考が脳裏をよぎる。 このひとを、また血で汚すわけにはいかない。だから、一定の距離を置いて、恭也は立ち止まる。 立ち止まった後で、首を傾げた。 むしろ、きれいなものは思い切り汚してしまいたい衝動もあって、自分の中に湧いたふたつの気持ちの内、自制を選び取った己に一瞬戸惑ったのだ。 なんにしろ。 説明は必要だった。 「城主に、会いに行ってたんだ」 気を取り直した恭也は、掌を上向きにして拳を開き、中のコインを彼に見せた。 「これ。なんだと思う」 雪虎が眉をひそめる。 「コインだな?」 なんの飾り気もない、見たままの台詞だ。 …正直なところを言えば。 雪虎以外が言ったなら、ばかにした。 心から嘲った。 見たまんまかよ、と。 なのに、彼が言ったというだけで恭也の中には好感しか生まれない。 自覚はある。始末に負えない。 「そう。ただし」 恭也はそれを、鮮やかな花が飾られたアンティークな机の上に無造作に放り出す。 「今夜一晩、ぼくらの安全を保障するって言う、魔女の誓約が込められてる」 ただの口約束ではない。 魔女の誓約という以上、極上の呪いめいた効果があった。 破れば、死をもって贖わなければならない。 雪虎は胡散臭そうにコインを見下ろす。そのくせ、子供みたいな好奇心が瞳に浮かんでいた。 恭也は念を入れて、強制的にこれを用意させたが、 (まあ、不要だろうな) こちらには雪虎がいるのだ。 恭也と共にいても、彼の本質は息をし続けているのだから、何を仕掛けてこようとも、魔女の力のいっさいは破られる。 おそらくはこの部屋にかけられていたはずの何らかの仕掛けが、影も形もないのがいい証拠だ。 魔女の城で、ここまで何も感じない方が逆に異常である。 ただし、問題もあった。 誓約をした以上、関わった魔女は二人を守らなければならないが、そのための仕掛けすら、無効化されている感じだ。 誓約をした彼女たちは焦っているだろう。いい気味だ。 コインを見下ろしていた雪虎の目が、不意に恭也を見上げた。 とたん、恭也の心臓が、調子はずれに跳ねる。 雪虎の眼差しは、本当に真っ直ぐだから、前触れなく視線が合うと、反射で隠れたくなるのだ。 「どうやって用意させたんだ?」 低い声は、脅すようでもあった。 もちろん、本当の脅しというものを知っている以上、雪虎の声はそよ風のようなものだが。 …彼が怒っていると、恭也は極端に居心地が悪くなる。 恭也は肩を竦め、かわい子ぶって首を傾げてみた。 「んー…、お願いして?」 雪虎は何かを察した顔になった。何も言わず、思考を切り替えるようなため息。 「分かった。とりあえず、それには触らない」 言われて、気付く。 確かにその通りだ。もし、雪虎がコインに触れたなら。 (誓約も、無効化するかも) 触れただけで、結界が消えたように。それはそれで見てみたい気もするけれど。 気を取り直した態度で、雪虎。 「悪いけど、先に風呂もらったぞ。寝間着は二人分、無理言って用意してもらった。お前もさっさとシャワー浴びてこい」 雪虎はぽんぽん指示を飛ばしてくる。恭也が汚れた格好でうろうろしているのが気に食わないのだろう。 なんにしたって、事務的な用事は、これで終わった。 「はーい」 恭也は、浮かれた気分で踵を返す。それも仕方がない。 以後の用事は何もなく、今日はこれから雪虎を独り占めできる。 これ以上のご褒美があるだろうか。 (ああ、ゆっくりする前に、黒百合と連絡取らないとな)

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