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日誌・134 交渉材料

× × × 雪虎は、身を投げ出すように、布張りの椅子に腰かけた。 木製で硬い。年代を感じる。 だが、座って不快というわけではなかった。これが職人技だろうか。 室内は趣深く、調度品のどれを見ても、目を奪われる。 成金めいた図々しい豪華さとは無縁の、自然体の格式高さがあった。 望んだわけではないが、月杜家の屋敷へ出入りしていたためだろう、そう言ったものに対する雪虎の目は肥えている。 素直に楽しみたいところだが―――――油断できない状況であることに変わりはない。それでもひとまず。 雪虎は、深く息を吐きだした。 (朝までは安全を約束されたってことか) この場所の雰囲気の異質さには、いくら鈍くとも、雪虎とて気付いている。 根本から、空気が違った。 どう説明すればいいのか…そう、この城の周りだけ、何百年か前の過去に閉ざされているような、そんな違和感がある。 にもかかわらず、 (電話とか普通に置いてあるし…) ただし、プッシュボタンではなく、昔懐かしの手で回すアレだ。 コレの黒電話が、月杜家にはまだ置いてあったりする。年代物だ。そして現役。 現実逃避し始めた脳の働きに気付き、雪虎は頭を横に振った。 放り出されたコインを見遣る。 恭也は、身の安全を守るために動いてくれたようだ。 ただ、それが、雪虎にとっては、 (…………………………意外、過ぎる) 本当にお前は風見恭也なのか、と内心本気で思った。なにせ。 あの死神のことだ、危険を煽るだけ煽って自分から死地を招くことだってやりかねないと思っていたのだ。 それなのに。 (真っ先に、安全の確保に動くなんてな) 逆に何を企んでいるのか、と思う。 雪虎としては、恭也の行動を見越して、城内で接触できた魔女の内、地位が上らしい者に、念押しはしている。 ―――――安全を約束してくれるなら、月杜本家には悪いようには言わないし、殺し屋にも今日明日はおとなしくするように言いますよ。自分の身を守ること以外は。 つまり、釘を刺した。 同時に、提案したわけだ。 彼女たちも、望んで猛獣の尻尾を踏みたいわけではないだろう。 彼女たちはツキモリを忌避しているらしいし、恭也のこともあまりいいようには思っていないから、一応の効果はあったと思いたい。 言った雪虎の表情と、話を聞いた魔女の表情はきっと似ていただろうから、同意は得られたと解釈している。 ただ。先ほど、恭也は、城主に会いに行ったと言ったが。 (危ない橋、だったんじゃないか?) 無論、あの男に限って、何か命の危機に陥るという状況は想像もつかないのだが。 むしろ、普段、殺して解決で終わらせる人間が、交渉などと似合わないことをしたのが妙に不安を煽る。 お願いして用意させた、と言ったが、しょうがないわね、と願いをすんなりかなえてくれる相手とは到底思えない。 ならば交渉するしかないと雪虎は思うのだが。 交渉材料などあったのだろうか。 こめかみを押さえ、雪虎は眉間にしわを寄せた。 まあ、どうしても気になるなら、当人から聞き出せばいい話だ。 今、目の前にある問題は。 前を向いたまま、雪虎は半眼になった。そちらには。 ―――――天蓋付きの、大きなベッドが鎮座している。 …それはいい。ただ、 (ひとつ、だな) どう見ても、ベッドは一つしかない。なのに、部屋へ通されたのは二人だ。 ものすごい誤解を受けている気がする。 いや、すべてが誤解というわけでもないのが、ますます居たたまれない。 泊まると言ったからにはもうここで、一緒に寝るしかないのだろうが。 こんな場所でこの状況で、さすがにその気になれるわけもない。 ぼんやり、ベッドに向いていた雪虎の半眼が、ふと、その上の着替え一式に止まった。 恭也の着替えだ。 機械的に認識するなり。 いっきに顔をしかめた。 ちょっと待て。なぜそんなものがまだそこにある。 今、恭也はシャワーを浴びているはずだ。 「着替えを持って行かなかったのか…」 舌打ちを堪え、着替えをとりに行こうと立ち上がり、ベッドの方へ足を向けた刹那。 「あれ」 思わぬほど近くから、声が聴こえた。 「まだ起きてたの?」 遅れて、鼻先に漂う、花のような香り。触れたわけでもないのに、ふぅ、と肌に感じる、高い体温。 心底驚いて振り向けば。―――――すぐ、鼻先に。 恭也の、肩口がある。雪虎は固まった。咄嗟の事で、飛びのくこともできない。 視界の端に映るその唇が、笑みの弧を描いた。 「もう寝てるかと思ったから、静かに出てきたのに」 ポタリ、雪虎の頬に、水滴が落ちた。 (近…ってか、いつの間に…!) 顔を上げれば、観察するような紺碧の瞳と目が合う。 たちまち、反射で顔をしかめる雪虎。 というのに、恭也はなにやら満足そうな表情を浮かべた。 いきなり身を放せば噛みつかれそうな予感があって、雪虎は慎重に距離を取りながら、ベッドの上の着替えを指し示す。 「ちゃんと服を着ろ」 「はーい」 いい子の返事で、恭也は思いのほかすんなり、踵を返した。 雪虎から離れていく。 素直に言うことをきいた恭也に、雪虎は疲れた気分で、また椅子に腰かけた。 ちゃんと常識は弁えているらしい、恭也は腰にバスタオルを巻いている。素っ裸ではない。 だがこの男にその辺の躾をしたのは、黒百合のような気がした。 着替えからは目を逸らし、雪虎は窓の外を見遣る。 結局、ここへは厄介ごとを作りにやってきただけのような気がしなくもない。 ただ、前向きな話はなかったものの、それはそれで必要なことだった気もする。 少なくとも、今、雪虎が見ている方向には、解決策がないということは知れたわけだ。 だからと言って、今度はどこへ目を向ければいいのかなど分からないが。 無駄ではなかった、と思いたい…いや。 世の中に、無駄なことなんて、―――――あるのだろうか?

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