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日誌・147 素で相手を見下す

× × × 店内は薄暗い。 かろうじで人の顔が判別できる程度の明るさだ。 薄明かりだが、煌びやかな印象に設定された、無駄にキラキラな照明を見上げ、尚嗣は黙ってグラスを傾けた。 ここは、尚嗣が夜、たまの気晴らしに訪れる店だ。 静かな雰囲気とつまみの美味さが気に入って、時折、一人で呑みに来る。 他人との会話は煩わしいが、気配は欲しい、そんなときにはぴったりの店だった。 基本、毎日、気を抜けば殺される戦場にいるような心地の尚嗣にとっては、敵意や探り合いのない空気というだけでも、やたらホッとするときがある。 無論、普段なら、そんな軟弱なことは言わない。 だが、自分が周囲から見ればまだまだ尻に殻のついたひよこに過ぎないと思い知らされた日などは、―――――怒りが湧くより、落ち込みが先に来たりする。 …言葉に正確を期すならば。 素直にどん底へ落ち込んでいるというより、苛ついている、むしゃくしゃしている、と言ったほうが正しい。 つまりは、子供のように拗ねた気分のわけだ。 刺々しい空気を察してか、幸い、誰も近づいてこない。 ―――――怒りというのは勝利に必要なものかもしれなけど、強いエネルギーだから、 高慢な弟が凹みやすいと知っていた姉は生前、柔らかな微笑でこう言ったものだ。 ―――――過ぎれば自分自身を傷つけるわ。ほどほどになさいな。 姉の言葉から考えるに、要するに尚嗣は怒りすぎて、自分の怒りで自分を傷つけて弱っているわけだろうか。 なんとも本末転倒だ。 我ながら子供で、もう少し、冷静さがほしいところである。 酔って羽目を外す歳でもないが、と尚嗣はグラスに目を落とした。液体の中で、おおきな氷が一つ素知らぬ顔で浮いている。 飼い慣らされたように理性を手放せない自分から見れば、羽目を外す考えなしな人間が、たまに羨ましいとも思う。 こんな風に考えるということは、要するに、尚嗣もまだまだ未熟ということだ。 雪虎が近くにいれば一発殴りつけてすっきりするのだが、というか、学生の時分は実際そうしていた―――――結果、よく派手な喧嘩に発展したが不思議と尾は引かずその場限りで終わった―――――が、大人になり、立場が違った以上、そんなこともできない。 なぜかは分からないが、雪虎との付き合いは子供の頃から喧嘩を挟まなければ成り立たなかった。 言い換えれば、それができる程度には、気安い間柄であるという話でもあるのだが――――――、 「…お食事中、失礼します」 不意に、尚嗣の耳に、優しげな男の声が届く。 「結城尚嗣さんでしょうか」 尚嗣はたまに、そうやって見知らぬ相手から声をかけられることがあった。 声をかけてきた相手は、主に。 結城家を知っている人間か。もしくは。 (叔父を、知っている人間) つまりは、尚嗣が目当てではなく、彼の身内にへつらおうとやってくる者たちだ。 まさかこんな場所で、寛いでいるときに、と。 うんざりした気持ちがこもった尚嗣の眼差しは、冷酷だったろう。ところが。 相手の顔を瞳に映した刹那、 (…は?) 尚嗣は瞬間的に、呆気にとられた。 テーブルの横で優雅に佇み、わずかに腰をかがめて親し気に微笑みかけているのは―――――ちょっと、ゾッとするほど端麗な顔立ちの青年だ。 怖い、という意味ではない。 本当に、同じ人間か、と思うほど異端の印象を覚えたからだ。 何事も過ぎれば、良くない。たとえそれが『美』であっても。 とはいえ、一瞬で尚嗣は、自分の記憶を検索した。 というのに、すぐには彼が誰か分からない。 尚嗣は、ぜったい、人の顔と名前は忘れないようにしている。 なのに、すぐには分からない、となると。 (…誰だ?) 身構えの鎧で心を覆いながら、尚嗣は胡乱な視線を無遠慮にきれいな顔に突き立てる。 素で相手を見下す尚嗣の視線は、彼の分厚い体格と相まって、強烈な迫力があった。 にもかかわらず、青年は物おじもせず、にこにこと笑みを崩さない。 いい根性だと感心したが、笑みは引っ込めてほしかった。なにせ、おそろしく整った顔立ちなのだ。 薄暗い店内というのに、見ているだけで眩しい。 だからこそ、ますます謎だ。 この、一回視線を奪われたなら、なかなか外せない顔面の良さ、一度見たら忘れないはず。 疑念を深めるなり。 青年がまとう見惚れるほどの優雅さに、既視感を覚えた。 たちまち、自然に脳内で記憶が検索され―――――とうとう、ある人物がヒットした。 脳裏に浮かぶのは、これ見よがしに、悪意ある笑みを浮かべる女。 水川さやか。 いや、今は、御子柴さやか。 そうだ、この男は。 尚嗣の口元に、不敵な笑いが浮かぶ。 どこまでもふてぶてしい態度で言った。 口調だけ、丁寧に。 「間違っていたらすみません。御子柴大河さん、ですか」 一方で、尚嗣の身体に緊張の芯が入る。警戒が最大限に引き上げられた。 過去、尚嗣はさやかから御子柴の結婚式に招待されている。 である以上、この男を見たことがあるはずだ。というのに、その記憶はあまりなかった。 (悪酔いしてトラと取っ組み合いになった記憶はあるんだが) ああ、だから、…途中で追い出されたのだったか。 代わりに、脳内に浮かんだのは、いつか経済雑誌に載っていた写真だ。 確かに、この顔だ。仕事中の女性職員の集中力を一瞬で奪っていた。 大河は満足げに笑みを深める。さすが、尚嗣の態度に、機嫌を害した様子はない。 この程度で不快など面に出していては、やっていけない場所に彼はいる。 「覚えていてくださって、光栄です」 …正確には違う。覚えていたわけではない。 だがいちいち訂正することでもないだろう。 相手が誰かに気付けば、対処法を考えると同時に、周囲の状況も見えてくる。 ―――――店内の意識と注意が思い切りこちらに注がれていた。 目立っている。 無遠慮な視線は、好きではない。 自分が向けるならともかく、他人から向けられるのは。 事前に、尚嗣自身の存在感が周囲に与えていた影響など、彼は想像しない。 基本、傍若無人なのだ。 尚嗣は舌打ちを堪える表情を隠さず、自分の前の席を示す。 座れ、と。 「…どうぞ?」 今までこの店で顔を合わせたことなどないのだ。偶然、大河がこの店にやってきた、などという話ではないだろう。 おそらく、大河は。 結城尚嗣に、用事があるのだ。 わざわざこんな演出などしたのは、間違いなく、さやかだろうが。…その意図は、どこにあるのか。 「話があるなら、簡潔にお願いします。なぜ水川…あー、奥方でなくあなたが来たのかは知りませんが」 水川さやかは誰に対しても遠慮などする女ではない。 特に、尚嗣には。 目が合うなり、戦闘態勢に入る…どころか攻撃を仕掛けてくるだろう。 トラちゃんの敵、という認識は子供の頃からぶれないままだ。 大河は人好きのする笑みを浮かべた。 それでいて、口調は断固としている。 「僕は妻を、夜、酒の席で男と一対一で座らせる気はありません」 さらりと言われ、ようやく尚嗣は合点がいく。

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