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日誌・146 備考欄・伝承のはじまり(2)

(いけない) 危険だった。 彼は、ただびとではない。 今となっては、厳格な、優れた指導者の面しか見せないが。 一方で、鬼と呼ばれるにふさわしい、知識と能力を持っている。それを残忍なほど容赦なく振るうことも彼には簡単にできてしまう。 夫がどこで生まれ。 どこで育ち。 どのように学び、そして、…なぜ、ここまで流れ着いたのか。 娘は、知らない。彼が決して明かそうとしなかったためだ。 確かなことは。 その知識は目を瞠るものがあり。 能力は、恵みをもたらし。 この地を、助けた。 …その、知識が、能力が、今。 逆風に吹かれ、災いとなろうとしている。 それは、或いは、娘が体内に封じた祟り以上のものとなるだろう。 彼を―――――災厄として、人々の記憶に根付かせてはならない。そんなことは、させない。 やさしいひと。 あたたかなひと。 純粋で。 頑なに、首を横に振り続ける娘に、それでもひたすら愛を注ぎ続けてくれた人。 その想いに―――――応えたかった。与えてくれた以上のものを、返したかった。 だが今、娘が自分の気持ちのままに、愛していると伝えてしまえば、…おそらく。 酷い結果を招くだろう。 その言葉は、男の怨嗟を増幅させる。 つまりは娘の自己満足が、男の存在を、最悪の災厄に変えてしまう。 そう、…させないためには。 どう―――――行動するべきか。 言葉が必要だった。 愛、優しさ、以外の。 棘のように、残酷な言葉が。 そのために。 溺れ、窒息しそうな喉を少しでも楽にするため、彼女は、どうにか横を向いた。 たちまち、彼の肌を衣を、血で汚したのがかなしい。 だってもう、拭ってあげることも洗ってあげることもできない。 寂しく思いながら、娘は告げた。 ―――――わたしは、また、…戻ります。この地に。 還ろう。 よみがえろう。 彼岸から。 かならず。 その言葉が少しでも、夫の希望となってほしい、と娘は願う。 本当は、前を向いて、生きてほしい。寂しいけれど、彼女のことなど忘れてほしい。 なにせ、もう娘は死ぬが、彼は生きているのだから。 互いの星は、分かたれる。 だが、その現実が、男から正気を奪おうとしているなら。 引き留めねばならなかった。 どれほど荒唐無稽な言葉ででも。 とはいえ、まるきりの、嘘ではない。実際、あったのだ。方法ならば。 それこそ―――――祟り。 娘が村で、疎まれるようになった、原因。 彼女の中に潜む、祟りの本体は。 このままならば、娘の死と共に、あの世に連れ去って行けるものだ。 …そう。 だからこそ。 人々は、疎んじたのだ。 娘がまだ、生きながらえていることを呪い、早く死んで―――――祟りを彼岸へ連れて行け、と。 口にこそ出さなかったものの、ずっとそう、願って。 それを、彼女は恨んだりしていない。 得体の知れないものが怖いのは、当然だと思う。 もちろん、かなしかったけれど。 それで、積極的に死ぬつもりもなかった。 まだ続いている命を自ら断つのは、いのちに対して失礼だ。 だが、こう、…なった以上。 祟りのすべてを完全に、道連れにするわけにはいかない。 すべてを持って行けば、戻る道がなくなる。いつか、彼女は此岸へ戻る。戻らねばならない。 彼女が戻る、ためには。 道が、必要だった。 やり残す、ことが。 もはやこれは、邪道だろう。 自覚しながら、娘は、そうっと祟りの一部を切り離した。 それは一瞬で、娘から飛び出し、一目散に闇の中へ逃げていく。 その行先なら、予想がついた。 閉じ込めた娘を恨むアレは、彼女と同じ血を目指し、そこに取り憑くだろう。もちろん対象は、娘の子供だ。 で、ある以上。 娘の身に起こった結果と、同じことになるのは、目に見えていた。いや。 子らには、鬼の血も入っているのだ。もう祟りは猛威をふるえない。 今度はもっと完全に、閉じ込められる。それでも。 なんて自分勝手で、ひどい行動をとろうとしていることか。自分の子に対して。 なんて母親。 ―――――ごめんね、ごめんね、ごめんなさい。 全ては、娘がこの代で終わらせるべきだった。そして、それは可能だった。だが。 (この世に戻る、と約束しなければ、…このひとは) 災厄と化し、この地のすべて、己の子孫すら、根絶やしにしてしまいかねない。 いとし子たちを、守るためにも。 男に罪を犯させないためにも。 戻ろう。 そして、今度こそ完全に、祟りの根を断つ。 それも勝手な自己満足、かもしれないが。 自然と、決意した。 わたしたちの生を、さらなる悲劇で終わらせたりはしない。決して。 これ以上、失われる命はないように。 誰も泣かなくて済むように。 娘は言葉を紡ぐ。嘘をつく。幾ばくかの事実を交えて。巧妙に。 ―――――祟りは、完全に、消えず、…血の中に、残ります。だから、わたしはまた、 だが。そこまでが、限界だった。 嘘など言いたくなかった。 まことを告げたかった。 衝動は、膨れ上がって、はち切れそうになる一方だ。 大切なの。幸せになってほしい。私を早く忘れて。ねえ、…笑っていて。 幸か不幸か。 もう、舌の感覚もない。目も見えない。手足の感覚も消えた。すべてが、飲まれていく。蝕まれる。死の闇に。 誰かの慟哭を、聞いた気がした。 遠く、―――――…遠くに。 娘の意識が薄れるにしたがって。 雪虎の意識が、戻ってくる。 おぼろに消えていく光景を見ながら、雪虎は正確に判断した。 彼女は、正しく、災厄を食い止めたが、さすがにあの状況で、未来の先の先まで見通すことはできなかったのだ。 いくら不思議な力を呼吸するように使えた存在であったとはいえ、今現在の月杜家など想像の範疇外にあったろう。 娘はただ、死に際に、災厄を止めるのに全力を注入した。それが悪いとは言わない。 むしろ、よくやったと褒められてもいいくらいだ。 まさに英雄で、救世主的な行動。 ただ、この地に戻ると言った彼女の言葉に、どれほどのまことがあったのか、定かではなく。 …現実として。 月杜の家がはじまり、その血統の中に祟り憑きが産まれるようになった。 鬼は、待った。 ――――――待ったのだ。 やがて、…娘の言葉通り、本当に誕生した奇跡に、救いを見出した。 けれど。 何かがねじくれてしまった。 歪んでしまった。 間違った形で積み重なって。 代々存続し続けたそれは複雑にもつれて、今になって解けるかどうかは見通しも立たない。 そのうえ、あろうことか、そのねじれによって、最悪が食い止められていた。 鬼の、暴走が。 見つけられない。正しい解決策が。 (それでも) 雪虎が、思いさしたその時。 ぱちり。 彼は目を開けていた。 朝の光の中、しばし、呆然として…幾度か、しきりに瞬きを繰り返す。 何か、大切なことを忘れたような気がしたのだ。 夢を見ていた気もする。 しかし、奇妙な焦燥感は、朝のひかりに溶かされるように消滅して。 雪虎は、のそりと起き上がった。 そこでようやく鳴り始めた目覚まし時計を引っ叩くように、止めて。 ふと、月杜の屋敷がある方角へ顔を向けた。 呼ばれた気分で。 「ああ、そうか」 起き抜けの、掠れた声で呟く。 …あとで、首を傾げる言葉を。 「わたしが死んだ場所に、屋敷は建てられたんだ」

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