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日誌・145 備考欄・伝承のはじまり(1)
× × ×
足元には、喘鳴をこぼす娘が横向きに倒れている。
小さな唇の端から、血の筋が白い頬を蛇のように伝い落ちていた。
身に纏うのは、上質で、華やかな着物。ただし。
胸のあたりに、もう手遅れな量の血がにじみ出していた。身体の下には、血だまりができている。
胸を突かれ、…肺をやられたのか。凶行を為しただろう凶器は、ここにはない。では、誰かが持ち去ったということ。
雪虎は一度、頭上を見上げた。
広がるのは、群青の空。
満天の星。
満月が、女王のように冷たい輝きを放ち、君臨している。
夜。
森の中。
木々が影を落とす青い闇の中、ゴミのように、娘は打ち捨てられていた。
乱れた黒髪の合間から見える横顔は、ひどく醜悪だ。
誰も、二度と見ようとは思わないだろう。
雪虎は彼女を平坦な気持ちで見下ろし、冷静に判断を下す。
―――――これは、夢だな。
雪虎は立ち尽くしているものの、寝入った時と同じ格好をしている。
寝間着姿。
足元は、裸足。
だが滲みだした娘の血だまりは、雪虎の素足に触れもしない。
娘も、雪虎の存在に気付いた様子はなかった。
彼女が死ぬのは、時間の問題だ。にもかかわらず。
雪虎は何も感じなかった。映画で見ているほうが、まだいくらか感情を動かされるはずだ。
おそらくは、雪虎自身は深く寝入っていて、感情は遠くにあるのだろう。つまりは。
―――――起きたら忘れる類の夢。
雪虎の感情は遠い代わりに、なぜだろう、娘の気持ちが、はっきり伝わってきた。
―――――あなたはあの方に相応しくない。
女の声で放たれたその言葉は、思わぬほど強い亀裂を娘の胸に走らせた。
驚くことに、まだ二十代と思われる彼女は、どうやら、二児の母であり、夫がいるようだ。
女の声は、既に母となり、妻である彼女を、彼女の夫である男に相応しくないと罵っているわけだ。
―――――太陽の光の中であの方と並び立ち、…顔もあげられない女。
嘲るような女の声は続く。
連鎖するように、娘の記憶が蘇った。
隣に立つ、威風堂々とした体格の、太陽のような男。
黄金の髪。
紺碧の瞳。
この地において、異形の色彩ではあるが、とうの昔に、指導者として皆から受け入れられている。
かつてと違い、みにくい顔貌になった娘は、側に行くのも、気後れせずにはいられない。
そして、繰り返さずにはいられなかった。
―――――わたしはあなたに相応しくないから、どうか。
手を握らないで。
抱きしめないで。
囁かないで。
愛を―――――乞わないで。
もっと相応しい人を、隣において。
どうか、どうか。
もちろん、そんなこと、想像だけで胸が信じられないくらい痛む。
だが、決して男が娘を放そうとしなかったから、何度も繰り返さずにはすまなかった。
彼を傷つけ、自身を傷つけ。
…いったい、なにをしていたのか。
ただ、娘と同じように考える人間は、大勢いた。
その中の、一人が。
彼女を呼び出した。
厳重に囲われた娘を守る監視の目を抜け、知らせを寄越したのだ。
かつて、娘と交流があり、親しかった少女を人質に、彼女を殺されたくないのなら知恵を絞って今夜中に出てきなさい、と。
結論から言えば。
当然、罠だ。
呆れたことに。
昔交流があった少女も、娘を始末しようとした側に手を貸したうえでの茶番劇。
結果、村はずれの森の奥へこうして娘は捨てられる羽目になった。
不幸中の幸いだったのは。
娘の醜悪さゆえに、身体を汚そうとする男が一人もいなかったことだろうか。
なんにせよ。
彼女はまだ、死ぬわけにはいかなかった。
もう、死ぬことは明白だが、今はまだ。
指先で、弱く土を掻き、懸命に命を繋ぐ。
母親らしく、子供たちのことを深く案じる思考が続くが、その中で。
…いちばん、おおきな子供のことが気になっている。
―――――夫。信じられないくらい身体が大きく、想像もできないような知識の持ち主であるにもかかわらず、無垢な子供といってもおかしくないくらいの純粋さを持った男。
最初は排斥された。
危険な存在だと。
あまりに巨漢で、いきなり妙なことを言い出すものだから、狂人だと言われ、最後は、―――――鬼、と誰かが言い出した言葉が定着した。
それでも、彼が温かい存在だと知ったのは、森へ分け入った時に怪我をして動けなくなった娘を、助けてくれた時からだ。
当時はまだ村人たちは娘に優しかったから、彼女は率先して、彼の手を引き、村に馴染むように手助けもできた。だが今は。
(わたしの方が、お荷物だわ)
これでよかったのかもしれない。
そんな思考が脳裏をよぎった。
だがこのまま死ねば、きっと、彼は。
…せめて、言葉を。
伝えたい言葉があった。
好きです。愛しています。
ずっと、ずっと。
…ずっと。
今までも、これからも。
本当に、伝えたかった。
何度、言葉を飲み込んだか分からない。それでも。
自信がなくて。
ああ、そうだ。
誰よりも彼女を貶めていたのは、彼女自身だったのかもしれない。
男に、彼女を貶めるのは、たとえ彼女自身でも許さない、と言われたから口にこそ出さなかったが。
ずっと、ずっと、心の奥底で、自分を疎んじ、忌み嫌っていた。
―――――ごめんなさい、ごめんなさい。
こんな、終わりが近くなってから、伝えたい気持ちが溢れるなんて、それこそ自分勝手だけれど。
娘は、男を待っていた。夫を、待っていた。
彼はきっと、見つけてくれる。
彼女を、迎えに来てくれる。
振り払おうとしたのに、どうしても、その希望が消えなくて。
いや、もう、予言者の気分で、娘は確信していた。
彼は来る。
果たして、どれほどの時間が経ったのか。
それとも、こんなことになって、たいして時間は経っていないのか。
もう、音すらもろくに聞こえなくなってきた耳に、砂利をこするような音が、届いて。
「―――――、」
名を、呼ばれた。
―――――彼の声だ。それだけで。…それ、だけで。
心が明るくなった。
死を目前にしながら、光を浴びた気分だ。
抱き起こされるのを、他人事のように感じる。
拍子に、胸がずきりと痛み、喉奥から喉が溢れ返ったのに、少し、意識がはっきりした。とたん。
自分の血で溺れるような苦痛の中、死の闇の帳が落ちてこようとしている視界に映った、男の表情に。
娘は悲しみで、心臓を鷲掴みにされた感覚を覚えた。
もう、彼女の死が確実なことを、悟った、夫の表情は。
奈落の底へ落ちたような、絶望に、染まり。
しばし、時間が止まったようになり…次いで。
理解。
…憤怒。
―――――形容しがたい憎悪へ、と。
純粋さゆえに、簡単に、自分自身のすべてを黒一色へ、染め上げていく。
止めようもなく、すみやかに。
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