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日誌・150 雨男
秀との間にあったことを思い出して、…雪虎は、はたと我に返った。
違う、幸恵が言っているのは、つまり、恋愛感情についてだ。
しかも女の子を、どう思うか。
今思い浮かんだのは、男のことばかりである。しかも、雪虎が受け身となった時だ。
幸恵の要求は、恋愛話。
…恋愛という言い方が重ければ、恋バナでもいい、とにかくそれだ。
単に、身体の関係を持った相手、というのとは違う。全く違う。
なんにしたって、いい歳をした男には、こっ恥ずかしい話題だ。
女の子と関係が一度もなかったわけではないが、なんにしたって、間にあったのは身体だけだ。同情なら少しはあったかもしれないが、好きだの嫌いだのと言う感情の縺れと言ったものは今まで一度もない。
思い起こせば、肝心な順番というものを、すっ飛ばしている気がしないでもなかった。
特に、今も続いているさやかの夫・大河との関係など、乙女の夢を踏みにじるようなシロモノだろう。言えるわけがない。
そこまで考えて、雪虎は結論。
自覚ならあったが、我ながら、自分という男は、なかなかにサイテーである。
いっきに、雪虎は渋面になった。なんということだ。
幸恵の、嫌なことなんて絶対にされない、と雪虎を信じ切った目を前にして―――――沈黙を守る以外の方法を、雪虎は思いつかなかった。
勘がいい幸恵のことだ、雪虎の経験がゼロでないことは察しているのだろう。
ただしそれがここまで欲望に忠実なものだとは想像もしていないに違いない。
どういうわけか、幸恵は雪虎をいいひとと思っている節がある。そんなわけがない。
雪虎がやってきたことはおそらく、平均女子なら眉をしかめる類のものばかりだ。
しかも、正直に言ってしまえば。
つい、燃え尽きたような表情になりながら思う。
(俺、初恋もまだだな…)
ただしこれには真っ当な理由があった。
初見において、雪虎が相手から向けられる顔は、もれなく嫌悪の表情だ。嫌悪の表情が、美しいものであるはずはない。
端から雪虎は、相手のもっとも醜いところを見せつけられるわけだ。
嫌悪を向けられて、喜ぶ性癖も雪虎にはなかった。
これでは相手に夢を見られるわけもない。
だからこそ、逆に。
とびきりの笑顔や、心配など、魅力的だったり優しかったりする表情を向けられると、…どうしても雪虎は弱くなる。
―――――まあ、相手は幸恵だ。そう難しく考えることはないだろう。
「そうだな、お姫さんのことは好きだ」
さやかとは家族として、一生の付き合いになるだろう。たとえ。
(…あの子が、もっと危険な道を行くとしても)
幸恵は嬉しそうに笑った。
「それは言われなくても分かるよ。家族だもんね。そうじゃなくて、異性として気になる人はいないのかなって」
「気になる相手はいない」
嘘ではない。
包み隠さず、恋人はいないがセフレはいる、などと言えるわけもなかった。
(我ながら、人間として、こう…)
自分がこうなのだ、雪虎に応じる相手の気持ちなどますますわからない。
落ち込むので、この手の話題はあまりしてほしくなかった。
そこまで考えて、考えすぎていることに気付く。
つい真面目に考えこんだが、幸恵としても真剣な話をしたいわけではないだろう。
話題を変える雪虎。
「人のことより、自分のことを考えろ。彼氏くん、遅いじゃないか」
結構話し込んだ気がするのに、飲み物を買いに行った幸恵の彼氏はまだ戻って来ない。
幸恵は、顔を上げてコンビニの方を見遣った。
「ほんと、戻って来ないなあ。どこまで買いに行ったんだろ」
心配そう、というより、いつものこと、と言いたげな態度だ。
「どれがいいんだろうって、真剣に悩んで身動き取れなくなってそうだよな、彼氏くん」
「そうなの、わかる?」
困っているのか、そこがいい、と思っているのか。
微妙な表情で雪虎を振り向いた幸恵は、
「ぅわ」
駅の改札口を視界に入れるなり、妙な声をあげた。次いで、小声になり、
「と、トラさん、トラさん…っ」
ぱたぱた雪虎の腕を叩き、彼の肩に隠れるように改札口を指さす。
「お人形さんが歩いてるぅ」
は?
相変わらず、幸恵の言葉は突拍子がない。
ただ、今回は、どうやら、周囲の視線も改札口に向いているようだ。
彼らは驚いたように、もしくは、魂を抜かれたように、ぽかんとそちらを見つめている。そう言えば、さきほど、特急が停車したはずだ。
階段から、客がまばらに降りてきていた。
その中に、歩く人形とやらがいるのだろうか。
雪虎にとって、お人形さん、から連想するのは、黒百合だが…。
幸恵に促されるまま、雪虎が振り向けば。
(おお…)
雪虎も、一瞬、呆気にとられた。
本当に、いる。
今、人形かと見紛う女の子が、改札口を抜けた。
緩くウェーブのかかった長い金髪。空色の瞳。白皙のほっぺたはわずかに薄紅色がかっている。
身に着けている服は紺色のワンピースという、シックなものだが、なんとも、愛くるしい。
まだ小学生低学年と言ったところか。
スーツの壮年の男と、十代の少年が付き人然としてその背後に従っていた。ただ、
(…なんだ?)
違和感がある。少女自身に、というより、付き従う者も含めた三人の様子に。
まるで、一番年下の少女が、一番年嵩の人間のように、彼ら二人を先導しているように見えたからだ。
この違和感は、通常、大人が子供の手を引いて歩くのが普通の光景と感じる雪虎の、先入観から生まれるものだろうか。
改札口を出た彼女がふと立ち止まり、振り返った。
と、後ろからまた別のグループがやってきたのに気付いて、雪虎は目を向ける。
(…これはまた育ちがよさそうな…)
先頭にいたのは、いいものを身に着けているな、と一目でわかる青年だ。大河よりは下だが、恭也よりは上の年齢だろう。
整った顔立ちに、洗練された仕草。
あの少女がいなければ、ここで人目を奪ったのは彼だったかもしれない。
知り合いなのか、青年と少女が挨拶らしきものを交わし合った。すぐに別れ、双方、別々の出口から出て行く。
もちろん、この時の雪虎は想像もしていなかった。
一日も経たず、彼ら全員とまた顔を合わせることになるなど。
「ふわあ、可愛かったぁ」
目を潤ませ、熱い吐息を吐きだす幸恵。犬猫などの小動物を見てもこんな感じだ。なんにしろ雪虎としても、
「ふぅん…ウチの姪っ子と張る美少女なんてはじめてみたな」
思わず感心して呟けば、聞き咎めた幸恵が元気よく振り向いた。
「姪っ子って! つまり、さやかさんの娘さんっ? え、どんな感じなんですか、見せてください、是非!」
また土下座しかねない勢いで、敬語になっている。いいけど、とスマホを取り出した雪虎は、
「あ」
画面に表示された時間を見遣り、立ち上がった。
「そろそろ出ないと仕事に遅れる。お嬢も早く行けよ。写真は今度な」
「ええっ、ここまでしてお預けっ?」
全力で驚かれたが、遅刻はよくない。
「し、始業時間までにはまだ余裕あるんじゃ?」
「弁当持ってくるの忘れたから一旦、寮へ戻らないと」
残念そうな幸恵にちゃっと片手を挙げ、雪虎は向こうからやっと戻ってきていた彼氏君くんに黙礼。
雪虎は駅から足早に出た。
今から出れば、家に寄っても余裕をもって始業時間には間に合うだろう。
ただし、事前準備の事務所の掃除があまりきちんとできそうにないのは少し心残りだ。
急ぎ足で銀杏の落ち葉を蹴飛ばしながら進む雪虎は、
「お…っと」
近くのパン屋から出てきた相手がひょいと眼前に出てきたのに、慌てて避けた。
幸い、まだまだ運動神経は衰えていないらしい。
相手の斜め後ろに進む形になる。
逆に相手は驚いたか、その場で棒立ちになっている。
「ああ、悪いな、前をよく見てなかった」
後ろから声をかけ、すぐ踵を返そうとしたところで、
「…え…」
振り向いた相手が、
「義兄さん?」
一度目を背け、もう一度目を戻しながら、そう、言ったのに。
雪虎は愕然とした心地で振り向いた。
足を止める。
そこには。
目を瞠って、雪虎を見る、―――――かつての、妹の婚約者がいた。
認識するなり。
ぽつっと雪虎の頬に、水滴の感触。
さっきまでは晴れていたはずなのに、ぱらぱらっと降った雨が、間を置かず、勢いを増していく。
目の前の男が慌てて提げていた傘をさしかけてくるのに、つい半眼になりながら、雪虎は低く言った。
「…相変わらずみたいだな、この雨男」
大晴という名前のくせに、いるだけで雨雲を発生させる彼は、居心地悪そうに身を竦めた。
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