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日誌・162 身構えと心構え
何かが引っかかった。
雪虎の顔が薄い笑みを浮かべたまま引きつる。たちまち、すこしポンコツ気味の脳みそが高速で回転――――若干、空回り気味に。
刹那、瀬里奈の言葉が、自分の思考が、断片となって浮き上がる。
見いだされた直系の孫。
男。
御子柴家。
娘夫婦の不幸。
―――――運命を繙く一族。
それらのピースが当てはまる人間を、雪虎は、…知っている、気がした。
(え、…いや、まさか…、そんな)
脳裏に浮かんだのは、大金が入ったスポーツバックを抱えて途方に暮れていたやせっぽちの青年。
―――――若林悠太。
良家の子息というにはいささか情けないが、追い詰められながらも肝が据わっていた。
仕事を捜しているというから、御子柴家に預けて帰った。
御子柴には家事をする人手が必要だったからだ。
状況はどうだ、とたまにL〇NEのやり取りなどしている相手だが、まさか、…そんなことになっているなど、一言も。
しかし思い起こせば、最近連絡がない。それに。
(祖母らしい人が見つかったそうなんです、とか…書いてあった、ような…)
―――――これは。…ほぼ、決定か。
遠い目になった雪虎を胡乱な目で見て、畳みかけるように、瀬里奈。
「問題は、御子柴家に彼を後押しするように頼んだのが月杜家と、お客人が思いこまれていることです」
雪虎はもう言葉もない。はは、と小さく笑う。笑うしかなかった。
細かいところを言及すれば色々と間違っているが、当たらずも遠からずと言ったところだからだ。
悠太を御子柴に預けたのは、雪虎で、彼は月杜の遠縁なのだから、瀬里奈が今言ったことは間違いとも言えない。
ただし、悠太を後押ししろなどとは言っていない。
なにより雪虎は、今の今まで、悠太がそんな血筋の人間とは想像もしていなかった。
だが、こうなると。
(うそだろ…俺自身がこんな目に遭ってる原因って、もとはと言えば)
―――――俺、自身、とか?
心の底から、唖然となった。そんなことって、あるか。
なぜそんな話になったのか。
自然とそうなった、というより、これはもしかすると。
(やりやがったな、御曹司、お姫さん…っ)
とはいえ、彼らが巻き込もうとしたのは、雪虎ではないだろう。月杜家だ。
かの家なら、おそらくは穂高家と張り合える。
そう考えて、遠回しに、月杜の名を出すことくらいは、彼らならやっただろう。
そもそも、月杜家は手を引かそうとして、簡単に言うなりになる相手ではない。
ただし、もし弱点があったなら?
「まさか…―――――それで、俺、なのか?」
つい、苦い表情になる雪虎。
だが月杜家へ手を出そうとして、まず雪虎を攫ったとなれば、事情を何も知らない者にしては行動が的確過ぎる。
助言者がいるはずだ。
それがつまりは、…結城正嗣ということか。
そのお客人とやらは、月杜家に手を引いてほしい。
そのために、月杜家の弱味を握ったわけだ。即ち、雪虎を。
雪虎としては、自身が誰かの弱点になるなど想像もできないことだが。
…なんにしたって、秀のことだ。
月杜家の義務として、きちんと役目はこなそうとするだろう。
雪虎を見捨てることはすまい。
迂闊すぎるお客人だ。
月杜家に手を出すなど、闇の中、心地よく惰眠をむさぼる虎の尾に火をつけに行くようなものだ。
明かりに気付かれ、がぶり。それで終わりだ。
「…噂通り、弟君の方は、短絡な方のようで」
それを言うなら、正嗣も同類だろう。思ったが、雪虎は賢明にも口を噤んでいた。
というか、お客人の坊ちゃんには、そんな噂があるのか。
なるほど、どうやら、この地を訪れた穂高家の坊ちゃんは、怖いもの知らずであり、なおかつ、そこに正嗣の秀に対する恨みが乗っかった形になったわけだ。
結果が、雪虎の現状である。
だが、そのお坊ちゃんはともかく、正嗣は月杜家の怖さを知っている。
だから、雪虎に対してここまでするつもりなどなかったはずだ。
彼としては、秀にちょっと冷や汗をかいてほしかった、その程度の思惑があったに違いない。
証拠に、殴られた雪虎を前に、焦っていた。
なにより、正嗣は暴力に慣れていない。今頃及び腰になっているはず。
そこまで考えたところで。
「…なんだ?」
遠くが、騒がしいことに気付いた。
廊下につながるだろう障子の方を雪虎が見遣れば、瀬里奈の目が冷ややかになる。
騒動は、どうやらこちらへ近づいているようだった。
それはいいのだが…、これは、なんだろうか?
不思議な感覚が、雪虎の中で、ぞわりと鎌首をもたげた感じがあった。しかし、そこに意識を凝らす時間は雪虎に許されていない。
瀬里奈が、面倒そうに首を横に振る。いや、疲れた態度で、だろうか。
すぅ、と音もなく立ち上がった。その手に持っていたのは。
「おい、まさか」
雪虎は眉をひそめる。瀬里奈の、何の感情も浮かばない表情を見たのが最後、頭に布の袋を被せられた。
刹那、気を失う直前の、聞き慣れない声が紡いだ台詞を思い出す。
―――――醜いな。頭に袋をかぶせておけ。
「お客人は、その顔を見たくないそうです」
何も見えないのだから、と雪虎は目を閉じることにした。
今更別に、騒ぎ立てたりはしない。またか、とため息をつく程度だ。
そう、今まで、何度か同じことをされたことがあるのだ。
よくあったのは、中学の頃。
なにせ子供だ、容赦なく、袋を頭に被せられ、サンドバッグにされた。
勿論、やった相手には全員、もれなくやり返したが。
そんなことよりも。
次に聴こえた瀬里奈の台詞にこそ、雪虎はギョッとした。
「今、同じ敷地内に月杜の方々もいます」
これでは、救いを待つお姫さまではないか。
抜け出す手段を考える暇もなかった。だが、確かに、時は既に夕暮れ時。
昼に連れ去られたことを思えば、まだ雪虎がここでこうしていることは、月杜の手際が悪いような気がする。
それだけ、結城家に配慮しているのではないだろうか。
茜の生家だからこそ、強引に出にくいところがあるのだろう。
「夫やお客人が対応していたはずですが、あの様子では…」
言葉を濁した瀬里奈の細い手が、雪虎の身体を押す。
無駄な抵抗はせず、雪虎は素直に横倒しになった。
この状況。
中学の時と似たことが、これから起こりそうな気がする。
腹筋に力を入れ、慎重に奥歯を噛み締めた雪虎に、瀬里奈がそっと囁いた。
「…忠告です。お客人は、暴力を簡単に振るいます。蹴られるか、殴られるか…、いずれにせよ、身構えと心構えを」
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