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日誌・164 私が甘かった

どうやら雪虎が投げ出され、顔を突っ込んだ先にあったのは。 ―――――月杜秀の胸元。 いや、あった、のではない。きっと、身を屈め、膝をつき、受け止めてくれたのだ。 …とはいえ。 内心、雪虎は臍を噛む。 ―――――どうして、いつもこうなのか。 雪虎が、一番情けなくて、誰にも見られたくない場面で、この男は現れる。 本日も、また見事に。 つい、固まった。 情けなさにいじけた心地になり、目を上げる気にはなれなかったが、視界の端に映った、秀の腕に、目を瞠る。 いつもの和装ではない。スーツの袖口が見えた。 (…え) 秀にもたれかかったまま、雪虎は目を瞠って、顔を上げる。 珍しく、秀はネクタイを締めていた。 新鮮であると同時に。二メートル近い長身であり、体格が良く、どっしりと落ち着いた印象の強い秀に、良く似合った。 素直に思う。格好いい。翻って、自身の情けなさに落ち込むが。 (いや…ちょっと待て) 何やら嫌な予感がした。 学生時代はともかく、秀が和装でないときというのは、決まって。 ―――――この男の周囲に、暴力の気配がある時だ。 いったい今、何が起こっているのか。 もしくは、起ころうとしているのか。 雪虎は不穏な気配を感じて気持ちを引き締める。秀はと言えば。 「お前の中の、祟りが消えたね」 真っ直ぐに、一言。 刹那、雪虎は竦みそうになった。これで、秀の中から、雪虎の価値がなくなるのではないかと、思ったからだ。 とたん―――――なんで怯えなくちゃならないんだ、と自分の小ささに呆れた。 秀に、思っていてほしいのか。 雪虎には価値がある、と。 特別だと? つい、鼻で笑う。ばからしい。 雪虎に価値など端からない。 雪虎の中から、彼をずっと苦しめてきた祟りがなくなった? 最高だ。 たった今、それをほかならぬ秀が保証してくれたのだ。ならば。 これでようやく、秀と雪虎は対等、なのではないか。だったら。 余計、この男の前で小さくなる必要はない。 自分の姿のみじめさなどものともせず、雪虎はふてぶてしく言い放った。 「ああ、だから、俺を会長が守る理由なんてなくなったんですけどね。悪いけど、この場を潜り抜ける手助けを、ちょっとばかりしてくれませんかね」 「…何を言っている?」 秀は一度眉をひそめ、低い声で言った。 「なるほど…、トラは何か、勘違いしているようだね」 「はい?」 いったい何を言い出すのか。 雪虎は目を瞬かせる。 その耳に、信じられない言葉が届いた。 「祟り憑き、という言葉が悪いのか―――――祟りをその血に受け継ぐもの、というなら、月杜の血を引く全員がそうだ」 …は? 雪虎は、唖然。 だが、月杜家の、他の誰も、雪虎のように妙な現象が起きて、苦しめられるということはなかった。雪虎だけだ。 誰の目にも醜悪な姿に映る、という現象に悩まされていた人間は。 「だが、ゆえに、月杜家の人間は決して、祟り憑きとはなり得ない」 「…何言ってんだ?」 それは矛盾しているように聞こえる。 秀はすぐ付け加えた。 「生まれた時から、祟りをその血に宿しているのだ、月杜家の者を表現するなら『祟りそのもの』と言った方が正しい。よって」 雪虎は目を瞠る。 すとん、と納得がいったからだ。同時に。 驚くより、なにやらゾッとした。 「あえて月杜家の中で、『祟り憑き』と呼ばれる者は、―――――はじめからその血に祟りを宿していなかった、…月杜に産まれながら、まっさらな状態だった者ということだね。つまりは」 秀は静かに、雪虎の髪を梳いた。 「雪虎。お前のことだね。お前に宿った祟りは、後付けのものだ」 「ちょ…っと、待て」 何やら、ほんの一瞬に得た情報量が多くて、処理が追い付かない。 「…消化する時間をくれ、いや、ください」 「いいだろう。では、先に、―――――こちらの話を進めようではないかね?」 秀は、背中で縛られた、雪虎の腕をじぃっと見下ろし、 「さて、―――――…さて?」 珍しく、表情を浮かべる。薄く微笑んだ。 いっそ優しげな表情と言えたろう。だが。 カミソリのように鋭く、狂的に何度も殴りつけるかのような気配が濃厚な、見る者を落ち着かなくさせる表情だ。 「…秀さん、これは」 いつの間にか周囲に満ちていた重い沈黙の中、上がった硬い声は、正嗣のものだ。 秀と一緒に、ここへ来ていたのか。 皆まで言わせず、秀は鷹揚に頷いた。 「わかっているとも」 穏やかな声に、秀の腕の中から動けないまま、雪虎は瞑目する。 (あー…なんだ、これ、すっげぇマズい気が…) 背後で縛られた腕を、秀の指先が、つぅとなぞった。 「…わかって、いるとも」 横から無言で近寄って来た若い男が、雪虎の腕へ手を伸ばす。 とたん、拘束が解かれていくのを感じて、雪虎はようやく肩の力を抜いた。 この状況で何ができるとも思わないが、まず身体の自由がないことには話にならない。 「―――――私が、甘かったのだね」 呟く秀は、雪虎を拘束したりはしなかった。 身体が自由になれば、離れようがどうしようが、雪虎の自由だ。 だがなんとなく、…危険な予感があった。 雪虎が秀から離れた刹那、ひどい惨状が起きそうな、ピリピリした空気が、秀から漂っている。だから。 両腕が自由になるなり、雪虎は咄嗟に、正面から秀の腕を掴んだ。 動きを拘束するように。 秀が受け入れなければ、雪虎の力など、なんの拘束力も持たないと知った上で。 (無駄な抵抗ってやつだな) 内心、苦笑。 もし秀が本気になったなら、彼にできないことなどないのだ。 頭上に、秀が見下ろしてくる気配を感じた。 雪虎は顔を上げられない。…最初から。 秀相手には、端から、雪虎など、負け犬なのだ。 ただ、秀に対して、動くなというように、雪虎は手に力を籠めるだけにとどめた。 なんにしたって、今。 この場の決定権はすべて、月杜秀の手の中にある。 正嗣だけは、憎しみのこもった目を向けているだろうが、彼でさえ、秀が漂わせる問答無用の怒りの空気に、何も言えずにいた。 言葉など意味はない。 秀が立っているだけで、誰の目にも明らかだ。 この男は、―――――格が違う。 にもかかわらず。 「なにをしている…っ」 そこでも、場を動かした、というより―――――考えなしに行動したのは、結城家の客人。 「何人消えようが、後始末なんて、どうとでもできる! そのゴミを片付けろ…っ」 ただ、なぜだろう、台詞は途中で、勢いを失い、彼は結局語尾を呑んだ。 とたん、雪虎は察した。彼のいる位置から、秀が見えなかった可能性がある。 そのタイミングは、一瞬、悪い方へ作用した。 青年が言葉を撤回する前に、場に居合わせた何人かが、動いたのだ。 振り向いた雪虎の視界の中、棒立ちになったままだったのが、結城家の家人。 号令に間髪入れずぶつかり合ったのが、穂高家と月杜家の人間、と言えるだろうが。 雪虎の視界を、一人の巨漢が掠めた。 (あ、アイツ…っ!)

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