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日誌・165 報復タイム

(あ、アイツ…っ!) 昼間、ちらっと見たきりだったが、忘れない。 雪虎の頭を殴った奴だ。 見つけたなら、やることは一つだ。 幸か不幸か、相手はこちらに向かってきている。おそらく狙いは秀なのだろうが。 相手の目的など知ったことではない。 雪虎は跳ねるように立ち上がった。 その時には自由になっていた両足で、踵を返し、そちらへ踏み出そうとした瞬間。 いきなり、伸びた腕に腰を攫われた。秀だ。 「なんだよ!」 咄嗟に睨み上げた時には。 前を向いた秀に、相手が殴りかかるところだった。 殺人など簡単にできそうな、重い拳に秀は片手を伸ばして―――――その手首を無造作に掴むなり、ぐいと引き寄せる。 相手にとってみれば、自身の拳の勢いに、予想外の手助けが入った格好だ。 たちまち、男はバランスを崩した。 転倒を堪えるため、次に彼は拳を身体ごと引くことになる。 間髪入れず、秀は。 まったくその動きに逆らわず、あえて同じ方向に力を込めた。 つまり、相手が拳を引く方向へ、ひょいと押しやったわけだ。 たった、これだけ。これだけで、効果は絶大だった。 使った力が、最大限に近ければ近いだけ、相手は自分の力に振り回される格好になる。 対する秀と言えば、力という力など、さして使っていないにもかかわらず、だ。 たまらず、相手は吹っ飛ぶような格好で、派手に後退。 尻もちをついた。 秀はしれっとした顔で、相手の醜態を眺めている。しかも微動だにしていない。 流れを言葉に変えれば簡単なようだが、相手の動きに合わせて正確に動くなど、できるようでできることではない。 しかも、秀はどちらかと言えば、その威圧的な長身と体格から、力で相手を制圧しそうな雰囲気がある。 にもかかわらず、このような繊細な技術で相手をあしらうとは。 ―――――詐欺だろ。 しかし、すごいことをしているのに徹底して地味なところが、この男らしいと言おうか。 雪虎は一瞬、呆気にとられたが。 それでも、吹っ飛ばされた男が、がばりと起き上がろうとするのを見て。 雪虎は駆け出した。 その時には、秀の拘束は解かれている。 今、男の眼中には、雪虎など入っていない。つまり。 今が機会だ。 相手は手ごわい敵として、秀だけ真っ直ぐに映している。 今、雪虎が彼に攻撃すれば、完全に意表を突くことになる。 ―――――卑怯だって? それがどうした、やられた以上、仕返しせずには終われない。 ただし、不意を突いたところで、拳や蹴りでどうにかできる相手ではなさそうだ。ならば。 思い切り駆け寄った雪虎は、勢いもそのままに、頭を振り上げた。 半腰の相手が、そこでようやく雪虎に気付いたのに、にやりと笑って、 「―――――卑怯上等!」 誰がどう見ても不意打ちのタイミングで、思い切り額を振り下ろす。 要するに、頭突きをかました。 視界の端に映るそれぞれの顔に、呆気にとられた表情が浮かんでいたが、構うものか。 正直言って、頭突きをすれば、雪虎だって痛いのだ。 目に星が散って、目尻に涙が浮かび、ちょっと悶絶。 しかし。 ―――――ばたり。 足元に、巨漢の身体が力なく沈んだ。 脳震盪でも起こしたのか、完全に、目を回していた。 「―――――よっし!」 雪虎は両の拳を握って、ガッツポーズ。 やってやった。実に痛快である。 あっはっは、と笑って相手の頭を踏みつけた。刹那。 大口開けて、ぽかんと庭にいる雪虎を見てくる結城家の客人と、はたと目が合う。 その時、まだ首に引っ掛かっていた布袋の残骸を、地面に投げ捨てた雪虎は。 笑みを浮かべた。にやり。 まさに悪役である。 「う、うわ…っ」 この時、青年を守る手勢はいなかった。 なぜなら…彼の命令に従った結果、月杜家の手勢とぶつかり合うことになったからだ。 彼らは、主人である青年を守るどころではない。それに気づいた青年が、泡を食って駆け出した。逃げたのだ。 「おいおいおい、ま・さ・か」 庭の砂利を蹴散らし、雪虎は助走もなく一気に疾走。 学生時代は、陸上部からよくお誘いのかかった足で、猛然とお坊ちゃんを追いかけた。 「逃げ足で俺にかなうと思ってんのか!?」 雪虎の人生は、よく分からない理由で難癖をつけられたり、いじめられたりが多かった。 祟りの影響により、醜悪に見えるご面相であったためだ。 それに対して懇切丁寧な仕返しをし続けた結果―――――報復に馴染んだか、その際の彼は、まるで水を得た魚のように、元気いっぱいにはっちゃけるようになった。 宣言通り―――――足では、雪虎が勝った。 青年は、あっという間に捕縛。 間髪入れず、まったく暴力行為にためらいのない、雪虎の拳が振りあがった。 拳を受けた青年の、怒号と罵声が次第に、泣き声に変わっていくのを、ただ一人、BGMのように悠然と聞き流しながら、秀はスマホを操作した。 目当ての番号が見つかったか、周囲の惨状を他人事の態度で見渡し、スマホを耳に当てる。 主の違いか、忠誠という点では意気の高い月杜側が圧勝に終わっているその場で、結城家側は雪虎の行動に、完全に毒気を抜かれている。 暴力に満ちた空気が、ひとつのすすり泣きだけが揺らすようになった頃、ようやく正嗣が我に返った。 「ちょ…っ、秀さん!」 庭の真ん中、特にこれと言った表情もなくスマホを耳に当てている秀を睨みつけ、正嗣は叫んだ。 「あなたはトラの保護者でしょうっ? 責任もって、止めてください! あんなやり方は、よくない」 トラと、穂高家の青年、二人の力の差は歴然として、あれではまるでいじめである。 止めてくれと訴える正嗣の方が、一般的に言えば、まともだ。が。 「なぜだね?」 まだ電話の相手は通話に出ないのだろう、秀は正嗣の言葉に応じた。淡々と。 「トラは理由なく、あそこまではしない」 裏を返せば、それだけのことを相手がしたのだろう、自業自得だ、と秀は言外に言っている。 「警察沙汰になってもいいんですか」 脅しのつもりの言葉も、秀には通用しない。 彼は逆に不思議そうに言った。 「…この程度で?」 雪虎が起こしている惨状を、どうやら秀は、小さな子供が起こす取っ組み合い程度にしか感じていないようだ。 話にならない、と正嗣はすぐに秀から顔を背ける。 いや、昔から、秀はこうだった。 雪虎のすることは、全面的に受け入れる。 逆に、雪虎の邪魔をする者には容赦がない。 正嗣は、弟と違って、喧嘩などしたことがなかった。 割って入ることなどできないが、 「こら、トラ!」 せめて、言葉をかけることで雪虎の暴挙を止められないだろうか、と声を張った。 「やめないかっ!? まったくお前は、気に入らないことがあるといつも」 「あぁ?」 文字通り、殴る蹴るを繰り返していた雪虎は薄笑いを消し、面倒そうに正嗣を振り返る。 「やめろ? なんで」 ひょいと立ち上がり、雪虎は肩を竦めた。 「俺は頭に袋被せられて、縛り上げられたまま、コイツに腹を何度も蹴られたんだけどなあ!」 …どうやら正嗣は知らなかったらしい。 目を瞠る。 雪虎は正嗣の斜め後ろに控えていた瀬里奈を横目にした。 彼女はわずかに目を伏せたきり、微動だにしない。 雪虎の言葉に、彼の視界の外で秀が微かに身じろいだが、誰も気付かなかった。 「その時は、誰も止めやしなかったぞ?」

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