167 / 197

日誌・166 無礼はこれでチャラ

「俺は頭に袋被せられて、縛り上げられたまま、コイツに腹を何度も蹴られたんだけどなあ!」 対する正嗣は、目を瞠る。息を呑んだ。 わざとらしい気配はない。 第一、演技ができる器用さなど、彼にはない。 …どうやら本当に、知らなかったらしい。 雪虎は正嗣の斜め後ろに控えていた瀬里奈を横目にした。 彼女はわずかに目を伏せたきり、微動だにしない。表情のなさは、瀬里奈の頑なさを示しているようだ。 雪虎の言葉に、秀が何かを言いさし、止めた。 「その時は、誰も止めやしなかったぞ?」 念を押すように、雪虎。 だが寸前までの、生き生きした態度は、もうない。 正嗣と違い、雪虎は殴り合いの解決の方が、心の負担が少ないのだ。こういうのは告げ口のようで落ち着かないし、気分も悪い。 足元の穂高家の青年は、その間に這って雪虎から距離を取ったが、追いかける気にもならなかった。 「…それは」 苦痛に満ちた表情で、正嗣は言い淀む。 「男ならやられっぱなしで終わるなってのが、ばあちゃんの言葉なんだよ」 不貞腐れたように、雪虎は付け加えた。 雪虎がやり返した結果、大人の世界で起きる悶着は、ばあちゃんが責任取っておさめるよ、と巴は言って、実際、何度もそうしてくれた。 雪虎にとっては、今となっては遺言だ。 「…巴さん…」 呟き、肩を落としたのは、正嗣だ。 雪虎の祖母・巴に弱かったのは、何も雪虎だけではない。 巴を知らないだろう瀬里奈は、一瞬だけ、不思議そうに夫を見上げた。 「それにさ、大将、あんたは」 雪虎は吐き捨てるように尋ねる。 「自分が俺みたいにされた時も、言えるのかよ。『復讐は何も生まない』ってキレイごと」 正嗣は、正直に言葉に詰まる。答えられないのは当然だ。 彼はそんな目に遭ったことなど一度もないのだから。すぐ、言える、と答えなかっただけ、少しは思慮深いと言えるだろう。 ふう、と一度、正嗣は深くため息をついた。身を改める。 雪虎を真っ直ぐ見て、口を開いた。 「―――――横暴を止めきれなかったことは、確かに、こちらの落ち度だ」 どこか、意を決した態度になった正嗣が、頭を下げようとする気配を感じ、 「ああ、そういうのいいから」 雪虎は、退屈そうな顔で言った。無造作に正嗣に近寄る。 戸惑う正嗣の視線に、ニコリ、笑って、強く拳を握った。 「それよか、こっちのがスッキリする」 ―――――ドゴッ。 正嗣のみぞおちに、正確に一発、えぐりこむ。 一拍、置いて。 声もなく崩れ落ちる正嗣。とたん、瀬里奈が初めて表情を動かした。悲鳴のような声を上げる。 「正嗣さん! …っトラ先輩、あなた…!」 しゃがみ込み、腹を押さえて前かがみになる正嗣と、夫の背に手を添えた瀬里奈を悠然と見下ろし、雪虎は鼻で笑う。 「俺に対する無礼はこれでチャラにしてやる」 「よ、くも、ぬけぬけと…っ」 憎々し気な目を向け、悔しげに唸る瀬里奈の態度に幾分か溜飲が下がった雪虎は、鼻歌交じりに庭に降りた。 誰のか知らないが、置いてあった下駄を拝借する。 敵意に満ちた視線を、瀬里奈以外にも結城家側から感じた。主を殴ったのだ。当たり前だろう。 だが、知ったことではない。少しの間、夜道に気をつければいいだけの話だ。 正嗣が本当に反省しているなら、家人を復讐には走らせないだろう。 うまいことこのまま、結城家を後にできればと思ったのだが。 「トラ」 とたん、秀に呼ばれた。となれば、立ち止まらずを得ない。 助けてもらった手前、無視はできるはずもなかった。 しかも今回の騒動、根本は雪虎の行動がきっかけに違いない。 不承不承、目を向ければ、 「…山本からだ」 スマホを差し出され、挙げられた名に、 「―――――後輩?」 雪虎は目を瞠った。 秀と浩介。意外な組み合わせ、と一瞬思って。 いや、と秀の顔を一度見直した。 (そう言えば、昔、俺が後輩を止めようとして、怪我をした時に) 確か、秀と浩介は、雪虎抜きで話をしたはずだ。その時に、二人の間で何があったか、雪虎は知らない。 …ただ、どうも、その頃からだった。 雪虎には見えないところで、この二人がつながっているように思えるときがある。 今のように。 秀だけならともかく、浩介が関わっているとなると、ますます無視はできない。 しぶしぶ、雪虎は手を伸ばし、秀からスマホを受け取った。耳に当て、 「…もしもし?」 本当に浩介だろうか、と探る声で言えば、 『―――――トラ先輩』 心底、ホッとした声が、雪虎を呼んだ。…確かに、浩介の声だ。 そう言えば、昼にいきなり攫われて行方不明になったのだ、浩介は心配しただろう。 ああ、会社は無断欠勤になったか、と無念に思いつつ、欠勤理由がこうも頻繁に誘拐だなんて人間は、世の中にそれほど多くないだろうな、と現実逃避気味に雪虎は考えた。 明日は専務の雷を覚悟しなければならないだろう。 「今日は悪かったな。昼はいきなりその、…アレだ。うん。ちょっと不可抗力なことがあってな? 明日はちゃんと会社に行くから」 『連れ去られるとき、殴られたと聞きました』 真実を言いあぐねた雪虎の言葉を先回りするように、浩介。 雪虎は言葉を止めた。 「…なんで知ってる」 『トラ先輩が戻って来なかったから、迎えに行ったんです。そしたらそこに、トラ先輩と会ってた相手がいて、一部始終を話してくれました』 ―――――すっかり忘れていた雪虎は、人でなしだろうか? 大晴。 そう言えば、彼は昔から妙に、要領がいいのだ。 同じ善人でも、正嗣などとはタイプが違う。だが。 浩介のようなタイプを、普段の大晴なら、敬遠しているはずだ。逆もまた然り。 二人が顔を合わせたと聞いて、雪虎は少し眉根を寄せた。 とはいえ、浩介が何でもない物言いをしたということは、無事に会って、無事に別れたのだろう。 「はあ…アイツは、無事か?」 『はい』 雪虎は大きく息を吐きだす。 『会社へも、先輩の事情は説明していますからご心配なく』 「助かった、ありがとう。明日は倍働くから」 素直に言えば、浩介は電話向こうで小さく笑った。 『明日は…どうでしょう? しばらく休んで、一度、きちんと病院で検査を受けられては如何ですか』 …こういった時。 浩介は、一体、どの程度これからのことを予測していたのだろうか。それとも、秀から聞かされていたのだろうか? 「そんな場合かよ」 『いいんじゃないですか、たまには』 浩介はすぐ、残念そうに付け加える。 『おれも先輩の迎えに行きたかったんですが―――――他でも急用がありまして』

ともだちにシェアしよう!