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日誌・167 勝てって、言ってください
「いや俺のことなら気にすんな」
『気にしますよ』
浩介の返事は穏やか―――――しつこく言い募ることはない。が、妙な強さを感じた。
なんとはなしに雪虎は黙ってしまう。
浩介は否定するが、…小さな頃、雪虎にケガを負わせたことを、この男は未だ後ろめたく思っている節がある。
いい加減に忘れろと言いたいが、うまい言い方を思いつかなくて、いつも雪虎は何も言えなくなるのだ。
『先輩が無事なら、おれにはそれだけでいいんですが…ひとつ、お願いが』
「なんだ?」
改まった声に、雪虎の気持ちが引き締まる。
どんな難題でも受けてやろう、そんな気迫で待っていたというのに。
『勝てって、言ってください』
―――――…うん?
文脈のつながりが何の欠片も感じられない台詞に、雪虎は首をひねった。
『トラ先輩が信じてそう言ってくれるだけで、おれには十分です』
(…なんだ?)
なぜだろう、浩介の声に、緊張や気負いは欠片だってないのに――――彼は今、危地の眼前にいる、そんな気がした。そしてそれは。
雪虎は思わず、目の前にいる秀を見遣った。…この男が、関係しているのではないか。
秀は何も言わない。表情からも、感情一つ、伺い知ることはできない。
咄嗟に、問い詰めたくなった。秀も、浩介も。…いや、それでも。
雪虎は大きく息を吸いこんだ。
浩介が何か言おうとしない以上、ここで言及するのは愚かだ。
浩介は、何と言った? 願いがある、と言ったのだ。それは、とても簡単なこと。
雪虎は小さく、息を吐いた。彼が望むなら、いくらだって言ってやる。
「勝て」
むしゃくしゃする気分を飲み込んで、雪虎にとってはただ当たり前のことを告げた。
「俺は知ってる。お前が負けるわけない」
とたん、…電話の向こうで。
―――――浩介が、笑ったような、気がした。
『はい』
何の気負いもなく、飄然と。当然のように、浩介は答えた。
今まで、ずっと、そうだった。
浩介はいつだって、当たり前のように言って、当たり前のように、勝って、不敗の栄光をずっと誰にも譲らず雪虎の元へ帰ってきたけれど。
命が脅かされるほど危険な場面で、浩介に『勝て』と告げなければならなかった立場の、雪虎としては―――――正直、キツい時もあった。
…おそらく、今もそうだ。
けれど、浩介を信じると決めた以上。
無事を願う言葉も、明日を約束することも、封じるほかなく。
雪虎は素っ気なく、
「じゃあな」
電話を切った。
そもそも、不安になど、負けてなるか。
余韻も残さず、雪虎はスマホを秀へ押し付けるようにして返した。とたん。
「ゆ、許さない、許さないぞ…っ」
聞き取りにくい声が上がった。
顔を上げれば、ふらふらと、穂高家の坊ちゃんが立ち上がるところだった。
顔を殴ったつもりはなかったが、どうやら一発右に入っていたらしい。腫れている。
雪虎が、報復をすると決めたら、やり過ぎるくらい徹底するのには、経験から来る理由があった。
心を根っこからぽっきり折らなければ、遺恨が残る。中途半端が、一番よくない。
つまりはまた、相手が再度、雪虎に挑もうとする。
「…やっぱりまだ、足りないか」
雪虎が舌打ちするなり、
「手勢は、ここにいるのが、全員じゃない…! 今からでも命じて、月杜家の方へ」
その往生際の悪さだけは、賞賛に値するかもしれない。だが、言葉途中で。
秀のスマホが音を立てた。着信だ。
秀は青年の言葉など完全に聞いていない態度で、スマホをすっと操作した。
耳に当てず、秀の掌の上で、上向きになったままのスマホから、
『…義兄さんですか。尚嗣ですが』
いきなり、おおきく聴こえた、不穏な声に、雪虎は目を瞬かせる。
意外な人物の声が聴こえた、と思うと同時に、ひょいと簡単な動作で、通話ボタンを押し、スピーカーに切り替えた秀に驚いたからだ。
そういう操作には、不慣れと思っていたのだが、しっかり使いこなしている。
(今度は、腹黒?)
しれっとした顔で、いったいどこで誰とつながっているか、読めない男だ。
しかし、確かに結城家の兄弟と秀は、義理の兄弟ではある。連絡を取り合っていても不思議ではない。
「接触はできたかね」
秀は淡々と尋ねた。
『ええ、今、一緒にいます。…まったくもう、今回は利害が一致したから動きましたけど、こんな使い走りみたいな真似、二度としませんからね』
ふてぶてしくも、細かそうな、ぶつくさした物言い。
確かに、結城尚嗣だ。これを、まさか秀にも向けているとは思わなかった。
自分が声を出せば、話が逸れそうだ。思った雪虎は押し黙る。雪虎をちらと見遣って、
「礼はしよう。…代わりなさい」
秀はさらっと命じた。尚嗣相手に。
強心臓、という点では、尚嗣も秀も、いい勝負だ。
尚嗣が誰と一緒にいるかは知らないが、まずは電話応対を優先した秀の態度に、
「きさ、貴様、おれが話しているときに、誰と話して…っ」
怒りのあまり、言葉を詰まらせた穂高家の青年の声が、電話向こうの尚嗣にも届いたのだろう。
『え…ちょっとまさか、これ、スピーカーになって…ってか、今のって』
尚嗣の声が、戸惑いに揺れ、次第に低くなった。
「何をしている、尚嗣」
そこで割って入ったのは、正嗣だ。
どうにか自力で立ち上がり、青い顔のまま、細い声で弟を叱責。
「結城家の人間が、使い走りか。しかも月杜家の」
『兄貴まで…っ。待ってください、まさか今の状況って』
何が起こっているのか薄々察したか、尚嗣が泡を食った声を上げる。
ただし秀が、それに頓着するわけもない。
「代わりなさい」
先ほどと同じ言葉を繰り返した。
待たせてはならない、と直感したか、電話向こうで、尚嗣が嘆息。
『わかりましたよ…』
向こうで、小さな話し声。ひそひそとなにやら遠くで言いあった後、
『…はじめまして、でいいのでしょうか。穂高忍と申します』
どこか、理性的すぎて、よそよそしい女の声が電話向こうから響いた。とたん。
穂高家の青年が、目に見えて固まる。
『この度は、当家の不始末を月杜の御方にお任せすることになり、まことに遺憾なこと』
「ね、姉さん…!」
―――――もしかして、と思ったら、本当にそうだったようだ。
青年が身を乗り出すのに、電話の相手の正体を察した正嗣が、ギョッとなる。
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