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日誌・177 ねじくれた因習
聞くなり。
動きを見せたのは、右近と左近だ。
直前まで、彫像のように動かなかったのに、弾かれたように顔を雪虎へ向けた。
雪虎が睨み返せば、戸惑った様子で目を瞬かせる。珍しく、差のない表情で、顔を見合わせた。よく意味が分からなかった、そんな顔をしている。
グロリアはと言えば。
単純に、驚いた様子だ。大きな目を、さらに瞠っている。
絶句、と言った態度で、すぐには言葉も出ないようだ。
雪虎が彼女の反応を根気よく待っていれば。
こちらもすぐ、理解不能と言った表情になって、首を傾げた。
「…必要が、あるかね?」
少女は慎重に、しかし真っ先に、そんな言葉を口にする。大ありだ。
「鬼と『祟り憑き』は依存しあってる。生まれる前からそんなのが決まってるなんて、おかしいだろ」
グロリアは眉をひそめた。
「なるほど、そう感じるのかね…ふむ」
雪虎の言い分に納得したように呟いたかと思えば、早口で別のことを尋ねてくる。
「とはいえ、力のない今の私にはわからないが、聞いたところ」
正座したまま、グロリアは同じく正座で向き合う雪虎の全身を視線で一薙ぎして、
「トラくんの中の祟りは消えたのだろう? ならばキミ自身はもう日常生活で煩わされることもない。なにより、『祟り憑き』は月杜の宝。今の状態なら、生涯、食うに困らないだろうに」
―――――そんなことを言ってきた。雪虎は低く唸る。
「つまり、俺に一生、月杜におんぶに抱っこされてろって?」
雪虎の不満げな物言いに何を察したか、グロリアは額を押さえた。
幼い外見の彼女がすると、あまり深刻な雰囲気は出ないが、グロリアにとっては大きな問題発言だったらしい。
「それは…困ったものだね」
「なんで困る?」
「月杜から自立したい、と言っているのだろう?」
「分かってるじゃないか」
何が困るのか、と雪虎はきょとん。
逆に、自活能力もないおじさんなんて痛々しいことこの上ないだろうに。
月杜の支援がなければ生きていけない、そんな人間にはなりたくない。
一人の男として、当たり前の考えだと思うのだが、グロリアは可愛らしい顔をしかめた。
「『祟り憑き』にはきちんと鬼を制御していてもらわねば、周囲に多大な支障が出る」
その台詞から察するに、彼女はある程度正確に月杜の状況を知っているようだ。
「まずもって、俺が嫌なのはそこだよ、教授」
雪虎は憤然と言った。
「なんで会長が―――――月杜秀、あれだけの男が、俺みたいなのに縛られなきゃならないんだ?」
その一言に、何を感じたか。
驚いた態度で、グロリアは雪虎を見つめた。
彫像のように戻っていた右近と左近も、微かに身じろいだ。…何か、おかしなことを言っただろうか。
なんだ、と鋭く見返して、雪虎は続けた。
「こんな代々の、ねじくれた因習、ここで終わりにするべきだ」
断言し、雪虎は唇を引き結んだ。
言いたいことがあるなら、言え、と待つ姿勢になった雪虎に、
「―――――先に確認しておきたいのだが、トラくんはどこまで月杜の伝承を知っているのかね」
言ったグロリアは冷静だった。
雪虎は顔をしかめる。
「いまさらそんな話が何になる」
本気でそう思ったから素っ気なく雪虎は言ったのだが。
グロリアはこめかみを押さえた。頭痛を感じた態度で。
「…あまり、知らないようだね。知っていれば、言えないだろう、…祟りに打ち勝つ、など」
「何が言いたい」
はっきり言え、と告げた雪虎を、少女は真顔で見返した。そして、―――――告げる。
「今や鬼は祟りそのものだと、知っているかね?」
「なんだ、そんなの」
少し前に、秀からそれを聞いたばかりだ。
知っている、と言いさし、雪虎は、一瞬言葉を失った。
愕然となった雪虎に、同情の目を向け、グロリアは首を横に振る。
「鬼は祟りそのもの。祟りに勝つということは、鬼の存在を消すのと同義」
「…いや…、待て、待てよ」
片手を挙げ、雪虎はグロリアの言葉を制した。
「月杜の血に流れる祟りを薄れさせるために『祟り憑き』は生まれるんだろう? 鬼が…当主が祟りそのものだったら、どうやって薄れさせるって言うんだ? それに」
雪虎は、うろ、と視線を横へ流す。
「そんな不吉な存在だったなら、今まで続く月杜の繁栄はどう説明するんだ?」
ほんのわずかに祟りの種を宿しただけで、雪虎は周囲から疎まれた。
月杜家の者が、その本体だとするならば。
これほどの繁栄が、果たして続くものだろうか。
「そのあたりの正確な話は、当人から聞くべきだね。彼はキミの願いには逆らうまいよ。私は部外者だし、当事者ほど詳しくもない。ただし、忠告を」
幼い少女が、可愛らしい顔を厳しくして、言葉を紡ぐ。
「トラくん、キミの考えは危険だ。…健気とは思うが」
だが、決めつけたり、考えを押し付けようとする意気込みはない。
子供を諭すような物言いで、グロリアは続けた。
「まず、キミはよく見るべきだね。状況を。特に、…鬼のことを」
―――――秀を?
一瞬、痛いところを突かれたと思った。
雪虎は、随分と長いこと、彼を疎んじ、避けてきたから。
それを、遠回しに叱られた気分になる。
「視野の狭さは、簡単に死を招きかねない。よくよく理解してほしいのだが、…当代にはもう、ほとんど自我などないに等しいのだ」
思わぬ言葉に、雪虎は息を呑んだ。対してグロリアは、教え導く教師の口調で、
「『祟り憑き』を得た鬼は総じて、そうなる」
根気よく言葉を重ねた。
「月杜の鬼にとっては、『祟り憑き』がすべてだからだ。他は塵芥に過ぎな…いやそれも正確ではないね、―――――どうでもいいと言った方が正解に近いか」
「いや…けど…」
反論しかけ、結局、雪虎は言葉を飲み込んだ。
思い当たる節があったからだ。
すべて納得はしかねるが、秀が危ういことは、事実なのだろう。
雪虎の言葉を少し、待って。
彼が何も言わないでいると、グロリアは雪虎の胸に強く声を押し込むように、言った。
「―――――対象への愛。それだけが、彼の自我だよ」
だんだんと、雪虎の胸に不安が暗雲を広げていく。
全く見えなかった前進すべき道のりが、茨で埋まっていることに、ようやく気付いて。
「この状態で、もし、鬼から『祟り憑き』が奪われたらどうなるかね?」
分からない、と雪虎は首を横に振った。
ならばよく聞きなさい、と言った改まった態度で、グロリア。
「かろうじで鬼の力を制御していたわずかな自我が消失し、力だけの身勝手な暴走が始まる」
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